ポピュリズムとは何か⑴—ポピュリズムという概念及びその定義―

 ポピュリズムという概念は、それが政治において現象化した際に取る多様な形態によって定義することが非常に難しいとされる。例えば、本論文の主題であるナショナル・ポピュリズムは右翼的傾向の強いポピュリズムであるが、ラテンアメリカ南欧諸国に目を向けると、左翼的傾向の強いポピュリズムも存在する[1]。さらに、アメリカにはティーパーティという特異なポピュリズム運動も存在する[2]。これらを踏まえ、様々な学問分野における多種多様なアプローチによってポピュリズムの定義づけがなされているが、どれも完全に適切とはいいがたい[3]。ミュデ&カルトワッセルはこれらの様々なアプローチを参照しつつ、ポピュリズムを「理念的アプローチ[4]」によって以下のように定義した。

 

本書ではポピュリズムを、社会が究極的に「汚れなき人民」対「腐敗したエリート」という敵対する二つの同質的な陣営に分かれると考え、政治とは人民の一般意思(ヴォロンテ・ジェネラール)の表現であるべきだと論じる、中心の薄弱なイデオロギーと定義する。[5]

 

    政治学者のミュラーも同様のアプローチを用いてこのように定義づけている。

 

ポピュリズムとは、ある特定の政治の道徳主義的な創造(moralistic imagination of politics)であり、道徳的に純粋で完全に統一された人民―しかしわたしはそれを究極的には擬制的なものと論じるが―と、腐敗しているか、何らかのかたちで道徳的に劣っているとされたエリートとを対置するように政治世界を認識する方法である、と私は提示したい。[6]

 

    以上の二つの定義を見たときに、ポピュリズムの特徴としてまず両者に共通してあげられるのは、反エリート主義という要素だろう。ポピュリストは社会を、「エリート」と「人民」という二つの階級に分断する。多くの場合、ここでいう「エリート」は厳密には定義されてはいない。しかし、諸業界(政治・経済・メディア・芸術)で指導的地位に立つ(すなわち、権力を持つ)存在とされ[7]、「エリート」は「人民」の総意(一般意思)に逆らい自己の保身と利益追求にのみ邁進する道徳的に劣位な存在とされる[8]。なお、こうした主張が客観的に正当であるかは問題とはならない。ミュラーがその定義の中で述べているように、反エリート主義はあくまで「道徳主義的な創造」であって、ポピュリストの採用する世界観なのである。だが、反エリート主義(エリート批判)のみをポピュリズムの特徴としてしまう事は、定義の幅を広げすぎてしまう事に繋がりかねない。なぜならば、政治変革を志す政治勢力は往々にして、現状批判の文脈でエリート批判を伴った主張をするからである。このように考えるとき、通常の政治勢力とポピュリストとを明確に分けるのは、ポピュリストが持つ反多元主義という性格と言えるだろう。

    そもそも多元主義とは何なのであろうか。多元主義は、社会は多様な価値観・利害を持つ多種多様の社会集団に分割されており、そうした利害や価値観を妥協と合意の中でできうる限り政治に反映させるべきと考える立場である。多元主義者は、多様性は強みであり、特定の社会集団が一方的に有利になることを回避すべきと考える[9]。これに対し、反多元主義者であるポピュリストは前述したように社会を「エリート」と「人民」という二つの社会集団に分断し、「人民」がその一般意思によって「エリート」を排して政治を担うべきだと考えるが、ここで彼らは自分たちが「人民」を代表するものだと主張するのである。さらに重要なのは彼らが、自分たちが「人民」を代表すると言うだけではなく、自分たちのみが「人民」を代表すると主張する点である。つまり、ポピュリストは他の政治勢力の正統性を一切認めることはないのである。自らに反対する政治勢力は、すべて腐敗した「エリート」の一部だとされる。これに加え、「人民」に対してもポピュリストは反多元的性格をあらわにする。ポピュリストにとっては自らを支持しない民衆は誰であっても「人民」に包摂されないものとするのである[10]。(ポピュリストのこの性格はナショナル・ポピュリズムにおいてより強硬な形で表出する。詳しくは次節で述べる。)

 最後に、ポピュリズムの特徴として指摘しておくべきことは、ミュデ&カルトワッセルの定義でいう所の「中心の薄弱なイデオロギー」という部分であろう。一般に、イデオロギーとは人間と社会のあり方ならびに社会の構成や目的にかんする規範的な理念の集合であり、端的に換言すれば、世界がどうあるのか/どうあるべきなのかというものの見方の事を示す[11]。「中心の強固なイデオロギー」であるファシズムコミュニズム、そしてリベラリズム等はそれ自体で十分に、世界がどうあるのか/どうあるべきなのかを指し示すことができる。しかし、ポピュリズムはそうではない。ポピュリズムが政治的な回答を出そうとする時には必ず他の政治的イデオロギーとの結びつきを必要とする[12]。本節の冒頭で記したように、ポピュリズムは様々な政治的イデオロギー、すなわちナショナリズム社会主義ネオリベラリズム等と結びつく。逆に言えば、このような他のイデオロギーと結びつかなければポピュリズムは成立しえないのだ。

 以上をまとめると、ポピュリズムを、反エリート主義と反多元主義を特徴とした中心の薄弱なイデオロギー、と定義することができるだろう。

 

[1] ベネズエラの大統領を務めたウゴ・チャベスや、スペインの左派ポピュリズム政党であるポデモス、ギリシャの左派ポピュリズム政党である急進左派連合(シリザ)、が左翼ポピュリズムの代表例である。

[2] 主要な右翼・左翼ポピュリズムがともに反経済的エリートの観点から再分配の要求を行うのに対して、ティーパーティは正反対であり自由市場経済を強く擁護する。(ミュデ&カルトワッセル(2018) p.25。)

[3] ミュデ&カルトワッセルは多様なアプローチによるポピュリズムの定義を以下の5つに整理した。(ミュデ&カルトワッセル(2018) pp.10-12。)

①人民を行為主体とするアプローチ:ポピュリズムとは人民が政治に携わることによって築かれる民主的な生活様式と考えられ、人々を共同体主義的な民主主義モデルの創出に動かす動力とみなされている。

②エルネスト・ラクラウ(アルゼンチン出身の政治理論家)的なアプローチ:ポピュリズムは政治から疎外された階層を動員することで、欠陥のあるリベラル・デモクラシーをより優れたラディカル・デモクラシーに変容させることに寄与するものとされている。

③社会経済的なアプローチ:80、90年代のラテンアメリカポピュリズム研究において多用された。ポピュリズムは無責任な経済政策の一類型であり、外債による巨額の政府支出とそれによるハイパーインフレ、その後の過酷な景気調整が特徴とされている。

④政治戦略と捉えるアプローチ:ポピュリズムは、権力を自身に集中させるために支持者との直接的な結びつき保ち、かつそれを介して統治をおこなうという、カリスマ的指導者が取る政治戦略とされている。

⑤政治スタイルと捉えるアプローチ:ポピュリズムとは、政党や政治指導者が大衆を動員するために、あえて社会的慣習を破ることで、自らを新奇な存在・エリートに立ち向かう存在だと演出し、メディアと民衆から注目を集める政治スタイルとされている。

[4] 理念的アプローチでは、ポピュリズムはある種の言説やイデオロギー、世界観と捉えられる。

[5] ミュデ&カルトワッセル(2018) p.14。

[6] ミュラー(2017) p.27。

[7] ミュデ&カルトワッセル(2018) p.23。

[8] 左翼ポピュリズムにおいてはエリートはもっぱら経済的階級と関連するものとされ、右翼ポピュリズムにおいてはエリートは経済的階級に加え「ネイション(真正さ)」とも結びつけられる。例えば、ヨーロッパ諸国においては、エリートはEUに奉仕し反国家利益的行動を為すものと糾弾される。(ミュデ&カルトワッセル(2018) pp.24-26。)

[9] ミュデ&カルトワッセル(2018) p.17。

[10] ミュラー(2017) p.27。

[11] ミュデ&カルトワッセル(2018) p.15。

[12] 同上 p.15。

 

引用参考文献(本稿に直接的に該当するもの)

ヤン=ヴェルナー・ミュラー 『ポピュリズムとは何か』 板橋拓己訳、岩波書店、2017年。

カス・ミュデ+クリストバル・ロビラ・カルトワッセル 『ポピュリズム―デモクラシーの友と敵―』 永井大輔・高山裕二訳、白水社、2018年。

水島治郎 『ポピュリズムとは何か―民主主義の敵か、改革の希望か』 中央公論新社、2018年。