カール・ポランニー『大転換』レジュメ

 

 

要約(紹介より)

1.「埋め込み」について

市場と社会の関係性…標準的経済学理論は経済とは諸市場の連動するシステムだととらえる⇔経済は自立的ではなく、政治・宗教・および社会的諸関係に従属している=「埋め込み」

2.本来的商品(市場で販売されるために生産されたもの)と擬制商品(土地・労働・貨幣)→擬制商品の「市場」に対する国家的介入の必要性

3.「二重の運動」…市場規模を拡大する自由放任の運動vs経済を社会と切り離すことへの抵抗から生ずる保護主義的な運動=市場社会の成立要素

4.金本位制(自由放任の運動)とそれに伴う保護主義的な運動

 

第Ⅰ部:国際システム

〇第1章:平和の百年

・19世紀文明の4つの制度的要素…①バランス・オブ・パワー②国際金本位制③自己調整的市場④自由主義国家

→自己調整的市場が最重要の制度

バランス・オブ・パワー(とそれに伴う平和)はいかにして担保されたか

前期(ウィーン体制):国王と貴族の血縁関係・聖職者による行政事務

後期(ヨーロッパ協調):大銀行家による国際金融業

・金融の影響力…①金本位制立憲主義を通じた政策決定への関与②公式/非公式ルートを通じて列強間の妥協を調整することでの平和の保持ex)オスマン帝国への債務管理

〇第2章:保守の20年代、革命の30年代

・保守の20年代…平和を求めるWWⅠ後の諸改革は19世紀の延長線上にあった→国際連盟における集団安全保障体制(⇔バランス・オブ・パワー・システム)、安定した外国為替と貿易の自由の確保

・19世紀の崩壊…危機の根本原因は国際経済システム(金本位制?)の崩壊

金本位制を(再)導入あるいは維持するためには通貨価値の安定化が必要=緊縮財政の実施、(特に大恐慌以後?)保護貿易システムの導入

 

第Ⅱ部:市場経済の勃興と崩壊⑴-悪魔のひき臼-

〇第3章:「居住か、進歩か」

・囲い込みの評価…変化の方向ではなく速度が重要→王権は囲い込みよる社会的混乱を緩和した⇔産業革命のプロセス

・機械の導入とそれに伴う産業革命が創出したもの=市場経済(諸市場の自己調整的システム)

〇第4章:社会と経済システム

市場経済…市場価格によってのみ統制される経済システム、自己調整的メカニズム

・歴史的に市場は経済の一要素にしか過ぎなかった⇔産業革命以後の経済&古典派経済学者およびそれを引き継いだ学者たちの認識

・部族社会の経済システム…対称性(互酬)と中心性(再分配

家政…特定の集団に属する自給自足の経済システムのこと(貨幣経済が補助的に付属している場合もある)、使用と利殖の区別

〇第5章:市場パターンの展開

・取引、交易、交換といった経済行動の原理…市場パターンによって有効的に機能する

・市場パターンの特異性…特定の制度=市場を形成し社会を経済システムに埋め込んでいく⇔互酬、再分配、家政

・市場形成の歴史…古典派経済学の理解:個人の取引傾向→局地的市場→国内市場→遠隔地市場⇔ポランニーの見解:遠隔地交易は市場を伴わないことが多い、局地的市場は限定的な性格かつ副次的なもの、国内市場は都市間のもの、加えて都市における二つの交易(遠隔地&全国)は非競争的なものだった

→15、6世紀の重商主義国家が全国市場の形成を行う、重商主義国内通商政策の非競争的側面、社会に埋め込まれていた側面

〇第6章:自己調整的市場と擬制商品-労働、土地、貨幣―

・土地・労働は市場外の仕組みで扱われるものだった

→自己調整的市場の出現、社会の市場領域と政治領域の分離によって市場によって包摂されていく→擬制商品(労働・土地・貨幣)化

→社会の実体(人間存在それ自体である労働、社会がその中に存在する自然的環境である土地)が市場に従属する=社会の経済への埋め込み

〇第7章:スピーナムランド法―1795年-

・イギリスにおける産業資本主義の完成…スピーナムランド法の修正とそれに伴う競争的労働市場の完成

・スピーナムランド法…最低限の賃金保障(「生存権」保障)しかし、労働の生産性の低下

→修正救貧法の成立→受給のスティグマ化、労働者による政治運動の出現

・政治経済学の出現

〇第8章:スピーナムランド法以前と以後

救貧法(+定住法)と職人条例…(二重の意味での)労働の強制と労働の管理=労働市場の形成を防ぐ

・産業予備軍と農村への再流入→スピーナムランド法の制定

・第七章の内容

〇第9章:貧困とユートピア

・貧困という問題は、貧民(の出現)と政治経済学(の創出)という2つの観点から解釈すべきであり、この2つは合わさって「社会の発見」へとつながる

・イギリスにおける貧民の出現…16c前半

・貧民を救済するための様々な試み…ベラーズ、ベンサムオーウェン⇔デフォーの言説

〇第10章:政治経済学と社会の発見

・自由な労働市場なき競争的市場経済…持続的な貧困の形成(←賃金引き下げ効果)

→タウンゼンドの自然主義をもとにした政治経済学の形成(マルサスリカード)、飢餓による統治

・伝統主義者バーク、功利主義ベンサムの一致点…自然主義的な政治経済学の諸原理への賛同と自由放任への理解

・⇔ロバート・オーウェン…「社会」への理解、市場経済の諸原理(と考えられたもの)が既存の社会を破壊するという考え

 

第Ⅱ部:市場経済の勃興と崩壊(2)―社会の自己防衛

○第11章;人間、自然、生産組織

・自己調整的市場において擬制商品が扱われる→労働と自然(いずれも生産要素)に対しては工場法・社会立法と土地立法・農業関税などを用いて規制を行う、同様に貨幣については生産組織である企業を保護するために中央銀行制度や通貨制度が制定される

・社会における階級とその利害…商業階級と経済的自由主義、労働者階級・地主階級と社会防衛、それぞれ政府と企業(前者)国家と産業(後者)を牙城とする

○第12章:自由主義的教義の誕生

・競争的労働市場+金本位制+国際自由貿易=世界規模の自己調整的市場システム

・「自由放任に、自然なところは何一つなかった。」…自由市場を形成するのは国家であり、その導入に伴い国家における立法機能は制限されるが行政機能と管理機能は増大する

⇔計画化された自由放任に対する反自由主義的立法こそ自然発生的(その法律に影響されて反自由主義的態度が成立した)

以下、自由主義者の論説への批判

・「集産主義的」政策は多様…経済的自由主義によって発生した社会問題から公共的な利益を守るため

・「集産主義的」政策はそれを目的として行われないこともあった

・「集産主義的」政策を推進する勢力の多様性…社会主義者、教会勢力、経済的自由主義者

・自由放任と経済的自由主義(あるいは自己調整的市場)の関係性…経済的自由主義と自由放任は対立しうる概念ex)カルテル・トラスト、労働組合

○第13章:自由主義的教義の誕生(続)―階級利害と社会変化

・階級利害を長期的な社会変化に適応することの限定的意味合いと社会変化に伴って階級それ自体が変化するという視点、利害を金銭的価値に限定すべきでないということ、階級同盟的な行動でなければ階級利害は達成できないということ

・市場の全般的導入に伴う社会変化について…文化的な退廃(社会変化を単に経済的側面から観察することへの批判)

○第14章:市場と人間

・未開の社会では個人で飢えることはなかった⇔市場導入(あるいはその前提)に必要となる「自由で自発的な労働者」を生み出す必要性

・イギリスにおける社会の防衛…①地主階級の抵抗②労働者階級の抵抗、オーウェンチャーティスト運動

ヨーロッパ大陸諸国…ブルジョワ&労働者階級vs封建的貴族&教会勢力→労働者の政治的運動の高揚⇔イギリス…労働者階級vs封建的貴族&ブルジョワ労働組合を通じた非政治的運動に限定(チャーティスト運動の失敗)

○第15章:市場と自然

・土地の擬制商品化の過程…①土地の封建的・共有地的な使用からの解放②都市部工業人口を支えるための農業生産の増大と全国市場の整備③農業生産物の流通を国際自由貿易に組み込む

・土地の擬制商品化に対する抵抗(=社会防衛)は貴族・地主階級⇔商業階級・労働者階級

・1920sの「法と秩序」(市場システムを維持する機能)は反動的諸勢力(地主階級や小農階級など)が担うvs労働者階級→労働者階級の国家による包摂(あるいは階級的運動の停滞)によって小農の影響力は低下⇔地主階級の存在意義=経済的自給自足の必要性

○第16章:市場と生産組織

・生産組織=企業は貨幣を通じて市場から影響を受ける

・古典派経済学では貨幣は交換手段として規定された…商品貨幣

・商品貨幣は貨幣自体に価値的な裏付けがある→金によるもの、金本位制下の紙券紙幣でも同様→取引量増大に商品貨幣量がついていけず、物価価値の下落を引き起こす

・古典派経済学の理論…政治領域と経済領域の切り離し(商品貨幣説)⇔金本位制(国家による裏付け)、購買力貨幣説

中央銀行制度の意義…集権的機能で市場経済を維持①国際的な影響(外国為替)から短期融資を通じて企業を保護②国内的な影響(信用状態の健全性)から企業淘汰を通じて外国為替を安定化

ナショナリズムの牙城となる

金本位制の破綻→市場経済の破綻の最終的契機

○第17章:損なわれた自己調整機能

・生産要素市場は自己調整的市場ではない→無理やり含意しようとしたときに社会の防衛が始まる(今までの話)

(・アメリカにおいても生産要素の供給に限界が見えるとヨーロッパ諸国と同じ帰結を辿った)

保護主義の連鎖性…社会立法(労働)と穀物関税(土地)→産業資本家の保護関税要求

・貨幣(に関わる金融政策)の国家的統合力…国民に対する影響力の甚大さ

→国際体制における金融の重要性→金融と信用にもとづく経済的不均衡の延命措置

・市場の機能不全を政治的に解決する

○第18章:崩壊への緊張

・失業の発生←社会立法による硬直化した価格と費用によるもの

→①国内政治における階級間の緊張関係(以下に分岐)

→⑴緊張関係が政治領域に持ち込まれる→救済措置(財政均衡条件の存在によって限定的)か階級闘争の成果の覆し

→⑵緊張関係が経済的領域で解決が試みられる→賃金の引き下げ

 

→②国際経済における通貨価値の下落、為替への圧力(以下に分岐)

→⑴小国の場合…国家威信の減退

→⑵大国の場合…帝国主義的対立の拡大による矛盾の外部化

 

保護主義的な措置と金本位制の併存状態→帝国主義の再拡大

金本位制の消滅によって従来の世界経済と市場文明が崩壊した

 

第Ⅲ部:大転換の進展

○第19章:大衆政治と市場経済

○第20章:社会変化の始動

ファシズム…市場システムの機能不全によって誕生

○第21章:複合社会における自由

・生産要素→市場外で決定⇔生産物→市場で分配

・自由の問題…①制度的次元②道徳的あるいは宗教的次元

①制度的な次元…規制を通じて自由のバランスを創出すべき

②道徳的な次元…制度的な次元で達成される自由を否定=市場ユートピアの擁護

・「ファシズムにおける自由の完全な破棄は、実際のところ自由主義哲学の必然的な結果である」…社会における権力と強制は現実的なものである。

ヨーロッパ政治におけるポスト冷戦の「叛逆」

 

 

問題意識

 

「世界に幽霊が徘徊している。ポピュリズムという幽霊が」。カール・マルクスの有名な著書である『共産主義者宣言』の序文を模倣した言葉がある。これは1969年に刊行されたポピュリズムに関する論文集の序文に掲載されていた言葉である[1]。もっとも、この時期にポピュリズムが「徘徊」するのは、ヨーロッパという「進んだ」民主主義を備えた地域とは違う、ラテンアメリカや北米、アジアなどの「遅れた」地域においてだとされていた。しかし今、私たちの目の前にあるのはポピュリズムに侵食され、戦後(あるいはそれ以前から)培われてきた自由民主義体制が揺さぶられているヨーロッパ各国の姿だ。2017年、フランスでは右翼ポピュリズム政党、国民戦線(現在は国民連合)の党首であるマリーヌ・ルペン社会党共和党という二大中道政党の候補者を下し、大統領選挙の決選投票に進出した[2]。同じく2017年、オランダでは国会議員選挙が行われ、右翼ポピュリズム政党である自由党のウィルデスがで第二党となった。当初の予想よりは議席を伸ばさなかったものの、それまで大連立を築いていた自由民主党労働党は互いに議席を減らし、特に労働党は選挙前の38議席が9議席と激減した[3]。ドイツにおいても2017年の連邦議会選挙は波乱となった。右翼ポピュリズム政党のドイツのための選択肢(AfD)が大躍進を果たし第三党に浮上する一方で、ドイツ戦後政治を担ってきた二大政党であり、選挙前は大連立を形成していたキリスト教民主/社会同盟(CDU/CSU)と社会民主党SPD)が大きく議席を減らした[4]。AfDはその後もバイエルン州議会選挙などで躍進を続け、それに比例するように上述の二大政党は議席を減らしている(特にSPDに顕著である)[5]

以上のような、近年のヨーロッパ政治における右翼ポピュリズム政党の躍進は、日本においても強い関心をもって報道されてきた。しかし、国内報道においてはこうしたポピュリズム政党は極右政党と呼ばれることが多い[6]。もっとも、いくつかの政党においてはその歴史的起源から極右政党と呼ぶこと自体は完全な間違いとはいいがたいが、極右というレッテルはファシズム的な人種主義や軍国主義、愛国的排外主義等を連想させるし、これは右翼ポピュリズム政党を正しく把握しようとするときに、一番肝心であるポピュリズム的という要素から目をそらしてしまう事に繋がりかねない[7]。そもそも、現在の右翼ポピュリズム政党の中には、上記のような偏狭な極右的傾向を脱皮することで支持を拡大してきたものもある[8]。本論文ではこのような問題意識を背景としつつ、ヨーロッパ各国の右翼ポピュリズム政党の成立過程を、ポスト冷戦における社会・経済・政治的状況と重ね合わせながら整理することで、いかにして彼らがその勢力を拡大したかを体系的に説明したい。

 なお、ヨーロッパ各国の右翼ポピュリズム政党について考えたとき、二次大戦後の政治的枠組みの違いを考慮する必要がある。具体的には、90年代に共産圏の崩壊を経て市場化・民主化を経験した中欧・東欧諸国は、戦後一貫して資本主義経済と議会制民主主義を堅持してきた他のヨーロッパ諸国と歴史的文脈が全く異なる。よってこれらは分けて把握されるべきだと考える。旧共産圏に含まれる中央・東欧諸国においては右翼ポピュリズム政党が政治を中核的に担うにまで成長した国があるが[9]、これらの諸政党については本論文では詳しく取り扱わない[10]。以上からわかるように、本論文の主題が、あくまで冷戦下で「自由主義陣営」に所属していたヨーロッパ各国の右翼ポピュリズムについてであるという事は最初に明記しておく。

 

ポピュリズムと右翼ポピュリズム

 

ⅰ)ポピュリズムとは何か

 

 右翼ポピュリズム(政党)について触れる前に、ポピュリズムという概念について理解する必要があるだろう。

ポピュリズムという概念を定義することは、それが政治において現象化した際に多様な形態を取るという事実から、非常に難しいとされる。例えば、本論文の主題である右翼ポピュリズムは右翼的傾向の強いポピュリズムであるが、ラテンアメリカ南欧諸国に目を向けると、左翼的傾向の強いポピュリズムも存在する[11]。さらに、アメリカにはティーパーティという特異なポピュリズム運動も存在する[12]。これらを踏まえ、様々な学問分野における多種多様なアプローチによってポピュリズムの定義づけがなされているが、どれも完全に適切とはいいがたい[13]。ミュデ&カルトワッセルはこれらの様々なアプローチを参照しつつ、ポピュリズムを「理念的アプローチ[14]」によって以下のように定義した。

 

  本書ではポピュリズムを、社会が究極的に「汚れなき人民」対「腐敗したエリート」という敵対する二つの同質的な陣営に分かれると考え、政治とは人民の一般意思(ヴォロンテ・ジェネラール)の表現であるべきだと論じる、中心の薄弱なイデオロギーと定義する。[15](傍点原著)

 

 政治学者のミュラーも同様のアプローチを用いてこのように定義づけている。

 

  ポピュリズムとは、ある特定の政治の道徳主義的な創造(moralistic imagination of politics)であり、道徳的に純粋で完全に統一された人民――しかしわたしはそれを究極的には擬制的なものと論じるが――と、腐敗しているか、何らかのかたちで道徳的に劣っているとされたエリートとを対置するように政治世界を認識する方法である、と私は提示したい。[16](傍点原著)

 

以上の二つの定義を見たときに、ポピュリズムの特徴としてまず両者に共通してあげられるのは、反エリート主義という要素だろう。ポピュリストは社会を、「腐敗したエリート」と「道徳的に純粋な人民」という二つの階級に分断する。多くの場合、ここでいう「エリート」は厳密には定義されてはいない。しかし、諸業界(政治・経済・メディア・芸術)で指導的地位に立つ(すなわち、権力を持つ)存在とされ[17]、「エリート」は「人民」の総意(一般意思)に逆らい自己の保身と利益追求にのみ邁進する道徳的に劣位な存在とされる[18]。なお、こうした主張が客観的に正当であるかは問題とはならない。ミュラーがその定義の中で述べているように、反エリート主義はあくまで「道徳主義的な創造」であって、ポピュリストの採用する世界観なのである。だが、反エリート主義(エリート批判)のみをポピュリズムの特徴としてしまう事は、定義の幅を広げすぎてしまう事に繋がりかねない。なぜならば、政治変革を志す政治勢力は往々にして、現状批判の文脈でエリート批判を伴った主張をするからである。このように考えるとき、通常の政治勢力とポピュリストとを明確に分けるのは、ポピュリストが持つ反多元主義という性格と言えるだろう。

 そもそも多元主義とは何なのであろうか。多元主義は、社会は多様な価値観・利害を持つ多種多様の社会集団に分割されており、そうした利害や価値観を妥協と合意の中でできうる限り政治に反映させるべきと考える立場である。多元主義者は、多様性は強みであり、特定の社会集団が一方的に有利になることを回避すべきと考える[19]。これに対し、反多元主義者であるポピュリストは前述したように社会を「腐敗したエリート」と「道徳的に純粋な人民」という二つの社会集団に分断し[20]、「人民」がその一般意思によって「エリート」を排して政治を担うべきだと考えるが、ここで彼らは自分たちが「人民」を代表するものだと主張するのである。さらに重要なのは彼らが、自分たちが「人民」を代表すると言うだけではなく、自分たちのみが「人民」を代表すると主張する点である。つまり、ポピュリストは他の政治勢力の正統性を一切認めることはないのである。自らに反対する政治勢力は、すべて「腐敗したエリート」の一部だとされる。これに加え、「人民」に対してもポピュリストはその反多元的性格をあらわにする。ポピュリストにとっては自らを支持しない民衆は誰であっても「人民」に包摂されないものとするのである[21]。なお、ポピュリストのこの性格は右翼ポピュリズムにおいてより強硬な形で表出する。詳しくは次節で述べる。

 最後に、ポピュリズムの特徴として指摘しておくべきことは、ミュデ&カルトワッセルの定義でいう所の「中心の薄弱なイデオロギー」という部分であろう。一般に、イデオロギーとは人間と社会のあり方ならびに社会の構成や目的にかんする規範的な理念の集合であり、端的に換言すれば、世界がどうあるのか/どうあるべきなのかというものの見方のことである[22]。「中心の強固なイデオロギー」であるファシズムコミュニズム、そしてリベラリズム等はそれ自体で十分に、世界がどうあるのか/どうあるべきなのかを指し示すことができる。しかし、ポピュリズムはそうではない。ポピュリズムが政治的な回答を出そうとする時には必ず他の政治的イデオロギーとの結びつきを必要とする[23]。本節の冒頭で例示したように、ポピュリズムは様々な政治的イデオロギー、すなわちナショナリズム社会主義ネオリベラリズム等と結びつく。逆に言えば、このような他のイデオロギーと結びつかなければポピュリズムは成立しえないのである。

 以上をまとめると、ポピュリズムを、反エリート主義と反多元主義を特徴とした中心の薄弱なイデオロギー、と定義することができるだろう。

 ここまで、ポピュリズムの定義と特徴を詳細に見てきたが、ポピュリズムというものを理解するのにはこれだけでは不十分である。われわれは、ポピュリズムがいかなる条件の下で発生し、その勢力を拡大するのかを把握する必要があるだろう。例えば、現在のヨーロッパ政治では左右のポピュリズムがその勢力を増しているが、翻って日本政治について考えたとき、上述した定義に当てはまるようなポピュリズムは存在しないと思われる。例外として、おおさか維新の会(日本維新の会)はしばしばポピュリズム的だと指摘されるが[24]、この場合のポピュリズムは上記の定義ではなくミュデ&カルトワッセルによる5類型の定義のうちのどれかに含まれる[25]。加えて、2019年の参議院選挙で突如としてその勢力を拡大したれいわ新選組についても、左派ポピュリズムであるのではないかという指摘があるが[26]、れいわ新選組はその主張の中に反エリート主義的傾向は明確に存在するが、反多元主義的傾向は全く認められない。ここからは、ポピュリズム政治勢力として成功しうる条件について、ポピュリズムの需要サイド――ポピュリズムを支持する民衆の側からの条件――と、供給サイド――ポピュリズムを採用する政治家もしくは政党の側からの条件――という2つの側面からみていきたい。

 始めに、ポピュリズムの需要サイドからの条件である。これは主に2点あり、この2つの条件が(往々にして複合的に)作用することでポピュリズムの成功をボトムアップ的に支援する。一つ目は、民衆の間に、社会(もしくは日常生活)に対する明白な脅威が存在するという認識が広まる、という条件である[27]。これは、具体的には、既存政治における深刻な汚職や腐敗、もしくは政治家の経済・社会政策の失敗などによって生じる社会的不満である[28]。そして二つ目は、民衆が政党や政治家を含む既存の政治制度が民意を代弁していないと感じる、という条件である。この感情は端的に「政治的疎外[29]」とも言い換えられるが、民衆と政治エリート及び政治エリートがプランニングする政策との間の隔絶が問題となっている。民主主義体制においては主権者は国民であるが、代議制である以上は政治エリートの選出が必要とされ、そしてこの政治エリートはしばしば民意に反した行動をとることがある。なぜならば、政治エリートは基本的には他の政治アクター(他国やメタ国家的な組織、国内の多様な利益団体)との折衝の中で政策決定を行うからである。主権者たる国民の立場に立脚した場合、この折衝は実質的にはそれら政治アクターによる一般意思の制限であると捉えることもできる。欧州においてはEUの構造的な問題から上記のような「政治的疎外」が発生しやすく、近年の左右両翼のポピュリズムが台頭することを側面的に支援する形となっている。この点については、Ⅳ章で詳述する。

 次に、供給サイドからの条件である。「階級」といった従来の政治的認識の方法の重要性が低下した(あるいは左翼政党の側から意識的に捨象された)というポスト冷戦の条件の下で、主要政党間の政策が収斂していったということは一般的に指摘されるが、これはポピュリズムにとって好都合となる。というのも、既存主要政党間で政策上の違いが少なければ、ポピュリズムを採用する側の「腐敗したエリート」という本質的には精度を欠いた[30]世界観は現実味を帯びるし、そうした政党との差異を強調することは容易であるし効果的であるからである。これに加えて、ポピュリズムを採用する側は、自らに有利な争点を設定する事に腐心することで勢力の拡大を図る[31]。例えば欧州におけるいくつかの右翼ポピュリズム政党が、既存の政治エリートが伝統的に「タブー」として扱ってきた[32]移民問題を失業や治安の問題と結びつけ政策上の争点に設定しようと試み、それが成功したことは彼らの勢力拡大に大きく寄与した。言い換えれば、ポピュリズムを採用する政治勢力が成功するか否かは、彼らがいかに信用性の高い危機の物語を創造するかにかかっているともいえるだろう[33]

 ここまで、ポピュリズムがある一国において発生する条件を需要・供給サイドから説明した。これら二つのサイドの条件が複合的に組み合わさることでポピュリズムはその勢力を拡大する。

 

ⅱ)右翼ポピュリズム

 

 本節では、右翼ポピュリズムについて、その特徴を明らかにしていきたい。

 右翼ポピュリズムとは何なのであろうか。ポピュリズムについては中心が薄弱なイデオロギーであると前節で定義付けたが、これに則ると右翼ポピュリズムとはポピュリズムが右翼イデオロギーと結びついたものという事ができる。しかし、ここでいう右翼イデオロギーファシズム/ネオ・ファシズムや過激派右翼に見られるような急進的な「極右」としてのそれではない。右翼ポピュリズム政党はその特徴として民主主義体制と非和解であるような反体制政党であるとはいえないし[34]、急進右派に特有の過激かつ露骨な人種差別的排外主義を一般の有権者に受け入れ可能な形に変容させている[35]。さらには、本来的には右翼イデオロギーとは相容れないものであったはずのリベラルで寛容な西欧的普遍主義を、イスラム教/文化を非難する上で採用している場合もある[36]。もちろんフランスの国民戦線(FN)やイタリア社会運動(MSI)のように、その系譜をたどれば戦間期ファシズム運動にたどり着くような極右政党を起源に持ち、過去には反体制的な暴力行為をもいとわなかった右翼ポピュリズム政党も存在するが、それらも党内改革を経て今は議会政治に重点を置いている[37]。以上のような特徴を考慮すると、右翼ポピュリズムにおける、ポピュリズムと結びついた右翼イデオロギーをより明確な形として示せるのは「福祉排外主義(welfare-chauvinism)」という言葉だろう。

 福祉排外主義とは何なのだろうか。二次大戦後、先進資本主義諸国と共産主義諸国との間では、冷戦といわれる膠着的なイデオロギー闘争の中で、どちらがより豊かな安定した社会を築けるのかが争われたが、その中で資本主義諸国が目指したのがいわゆる「福祉国家」の建設であった。重要なのは、こうした福祉国家は伝統的には移民やマイノリティなどといった弱者にも手を差し伸べる存在であったという事である。もちろん、80年代にも福祉と結びついた移民排除の動きがなかったわけではないが一部に留まった。これは、福祉国家の構成員たる資格に「参加」や「寄与」といった条件がなかったため、彼らは福祉国家にとって「包摂」の対象でこそあれ「排除」の対象ではなかったからである[38]。しかし、このような福祉国家はポスト冷戦の構造の中で変容していく。1990年代以降の先進資本主義諸国は、福祉給付者の増加、グローバル化等を背景とした財政支出抑制の必要性などの従来の福祉国家を揺るがす問題に直面した。この中で、再分配的な「給付」に力点を置いた福祉国家は構造的改革を要請されるようになり、職業訓練機会の提供や職業紹介などの機能を強化するとともにこれらを忌避する者へのペナルティを導入するなどして「就労」を重視する形に変化していった。こうした就労を重視する現代の福祉国家は市民の労働市場への「参加」を積極的に求め、たとえ女性や障碍者などであっても何らかの形で経済社会に貢献することを求められている。しかし、外国人や移民について考えたとき、そもそも彼らは言語や文化そして宗教などを共有しないために、社会生活への参加が困難であるし、それはすなわち労働市場への参加が難しいことを示している。加えて、もし仮に労働市場に安価な労働力として参加できたとしても前者の共有がない限りは当該国の社会上は異質な存在のままであり、社会生活に対しては不参加の存在だと見なされる[39]。こうして外国人や移民/難民は福祉国家において「排除」が正当化される。これが福祉排外主義である。右翼ポピュリズム政党はこの福祉排外主義を大きな特徴としている。

 また、前節において、ポピュリズムの特徴として社会を「腐敗したエリート」と「道徳的に純粋な人民」の二階層に分類するという事を述べたが、右翼ポピュリズムにおいては、福祉排外主義との関連上これに加えてさらにもう一つの階層が「想像」される。「人民」の下には「社会の最底辺層」がおり、彼らは社会を蝕み「人民」を害する寄生虫のような存在だと規定される。そしてこうした「社会の最底辺層」と「人民」を区別する指標として、社会に貢献するような仕事をしているかどうか(福祉排外主義の文脈に照らして「参加」をしているかどうかと言い換えても良いだろう)やエスニック的な出自が使用される[40]。そして、そうした「社会の最底辺層」は当然に国外へと追放すべき存在と主張されるのである。

 さらに、福祉排外主義に関連して、右翼ポピュリズムのその経済政策についての主張(とそれに付随する支持層)の歴史的変化についても指摘しておくべきだろう[41]。前節の最後に触れた、ポピュリズムが勢力を拡大する条件の「供給サイド」にも関連する話ではあるが、右翼ポピュリズムは選挙において、主要政党が接近した部分の「隙間」を自党の政策パッケージに取り込むことで勢力を拡大しようとする。そのため、右翼ポピュリズム政党の経済政策上の主張は、80年代から90年代前半にかけては新自由主義(福祉軽視)であり、90年代後半から現代にかけては福祉排外主義(福祉重視)と変化した。以下詳細に説明すると、戦後ヨーロッパで各国で福祉国家の建設が重視される中、主要政党(主に保守主義政党と社会民主主義政党)間の政策距離が接近した[42]が、この状況下で右翼ポピュリズム政党は減税や規制緩和に代表されるような新自由主義的経済政策を掲げ、これらの政策に親和性の高い旧中間層を支持母体としていた。しかし、80年代には社会経済的な背景から福祉国家の改革が要請されるようになり、レーガンサッチャーを代表として新自由主義的な経済改革が保守主義政党の側から行われるようになった。その反動から各国で成立した社会民主主義政権もブレアの「第三の道」に代表されるようにイデオロギー改革を経て、新自由主義的改革を一部受け継ぐ形での路線にシフトしていく。その結果、主要政党間での経済政策が再び収斂していった。右翼ポピュリズム政党はこの「隙間」に入り込み、新自由主義を放棄して福祉排外主義に移行することで支持層の拡大を図った。そして、社会民主主義政党の変質によって支持を離れていった労働者層を新たな支持母体として獲得することとなった[43]。逆に、こうした経済政策における主張の移行を達成できず新自由主義を保持し続けた政党は主張の独自性を発揮することができなくなり、その勢力を凋落させることとなった[44]

 ここまで、右翼ポピュリズムの「中心の強固なイデオロギー」と考えられる福祉排外主義についてみてきた。右翼ポピュリズムの特徴については、もちろん他にも存在する。例えば「反リベラリズム」という要素はその代表例だが、これらは各国の政党によって色合いがかなり違うといえるので省略した。こういった特徴点については、むしろ各国の右翼ポピュリズム政党を実際に見ていく中で個別的に把握していくのが適切だと考える。

 

 

Ⅱ 「リベラル」な右翼ポピュリズム――オランダ、フォルタインの衝撃――

 

 前章では、ポピュリズムの定義から始まり、最後に本論文の主題でもある右翼ポピュリズムの特徴を福祉排外主義という観点から説明したが、続くⅡ・Ⅲ章では具体的に右翼ポピュリズム政党の起源とその歴史をたどっていきたい。右翼ポピュリズム政党の起源は多岐にわたり、本章で説明するような非極右政党を祖先として持つ政党もあれば[45]、Ⅲ章で扱うフランス国民戦線のように反体制的な極右政党が党内変革を経て現在の形にたどり着いた場合もある。そうした多様性を念頭に置きつつ各国の右翼ポピュリズム政党をみていきたい。

 

ⅰ)オランダにおける福祉国家とその改革

 

 第二次大戦後のオランダは、戦後政治の中核的存在であったキリスト教民主主義政党の政治的優位の下で福祉国家が建設されていった[46]福祉国家は、その形成において質的な軸となった政党やイデオロギーの影響に着目した分析により3つに分類されているが[47]、これらのうちオランダの福祉国家は「保守的福祉国家ジーム」に属する。保守主義福祉国家/大陸型福祉国家の特徴は「産業・職域別組合や非営利組織、そして家族を基本的な単位として位置づけ、国家の直接の介入を避けてこれらのコミュニティの役割を重視する福祉制度を重層的に積み上げる一方、国家が主体となって雇用を創出する発想は乏し[48]」いというものである。かみ砕けば、第一として、キリスト教的価値観に基づいた男性稼得者モデルの家族を重視し、第二に、地域レベルでのコミュニティや労働者の所属する産業・職域別組合が福祉における実行主体として想定されるという分権性を備え、そして第三に、給付への偏重と就労支援政策の欠如、が大陸型福祉国家の特徴といえるだろう。オランダにおいても男性労働者に対する所得保障という側面が重視され、失業保険や就労不能保険を用いた給付制度が整えられる一方で就労支援政策は殆ど整備されることはなかった[49]。しかし、このような福祉国家の在り方は持続した経済成長と雇用の拡大、そして給付対象者の限定といった条件に裏付けられて存続が許されていた。そのため、1970年代に発生した二度のオイルショックによる影響でインフレーションと景気後退に見舞われたオランダが、1970年代後半から緊縮財政に転じその結果として企業倒産・合理化が生じ多数の労働者が失業するという状況になると、社会保障費の負担の急増が政府に重くのしかかるようになった[50]。繰り返しになるが、大陸型福祉国家の特徴として、労働者を早期退職などを促すことで労働市場から退出させることで(その後は保険などで所得が保障される)、失業者の抑制を達成させるというものがあり、就労支援や職業訓練を通じた労働力の再活用は殆ど考えられていなかった。こうした所得保障に力点を置いた特徴から「受動的」福祉国家とも呼ばれているが[51]、オランダにおいても、オイルショック後の産業編制の中で再就労を見こさない給付を受け取るのみの労働者が増加し財政を圧迫することになったのである。

 このような状況下のオランダで、危機を脱する試みが行われた。はじめに、労使の間で賃金抑制と雇用維持を交換した協定が締結され、企業の競争力の回復と失業率の低下が目指された[52]。そして1982-94年のルベルス政権の下でも被用者保険の給付額の減少や、給付条件の変更・厳格化が行われた。しかし、これらの改革は大陸型福祉国家システムの根本的な見直しには至らず、給付偏重というその特徴は温存されたままとなる[53]。もっとも、この構造についても94年の総選挙によってキリスト民主主義政党が下野したことでメスが入る事となる。後継のコック政権は労働党社会民主主義系)と自由民主人民党(自由主義右派)と民主66(自由主義左派)で構成されており、従来の「受動的」福祉国家の抜本的改革に乗り出した。この改革は従来の社会民主主義を脱し「第三の道」を掲げたイギリスのブレア政権と近似したものであるといえる。コック政権は福祉制度における分権性を廃し、雇用政策を福祉政策と抱き合わせる中で福祉給付受給者の就労を促進し、就労支援政策の導入を図った[54]。2002年に政権交代が起こり、キリスト教民主主義政党のキリスト教民主アピールが与党に返り咲いても(バルケネンデ政権)、コック政権の基本路線は維持され、高齢化など新たな問題を背景としつつ、就労の支援/再復帰に力点を置いたさらなる改革が続けられた[55]

 しかし、こうした改革は従来の政党と下部組織との間に亀裂をもたらすこととなる。例えば、労働党と、従来は労働党を支持していた労働組合の関係は冷え込んだし、キリスト教民主アピールの系列労組や支持層だった高齢者層も離反することとなった[56]

 

ⅱ)移民と社会

 

 オランダは歴史的に移民の受け入れが盛んな国であったが、非ヨーロッパ系移民は1950年代以降拡大し、トルコやモロッコから多くの移民が流入した。後に詳しく触れる、フォルタイン党が躍進した2002年の時点では国内総人口約1600万人のうち非西洋系市民[57]は156万人を占めていた。加えて、難民も周辺諸国と比べて多く流入していた。これらの背景にはオランダの寛容な移民政策があったと指摘されている[58]。移民に対しては社会的統合のために多文化主義政策が推進され、移民の文化的アイデンティティの保持が推進された[59]。加えて、移民は住宅支援や生活保護などオランダの福祉制度にもアクセスが容易であった。しかし、多文化主義政策と福祉制度にもかかわらず移民の社会的統合は進んでおらず、都市における居住地域のすみわけ[60]が行われたり、同一のエスニック集団内部での婚姻関係が維持されていた[61]

 

ⅲ)フォルタインの登場

 

 ピム・フォルタインは「寛容」なオランダにおける異色の存在だった。60年代後半の学生運動の高揚の中で学生生活を送った彼は労働党に入党し左派系の学者として過ごすが、後に「転向」、離党し以後は右派論客として注目を集めるようになる。95年に大学教員を辞してからは企業経営の傍ら、メディアへの寄稿、本の執筆を通じて活動した。この時期に彼は、オランダの主要政党やマスコミ・知識人が支持してきた移民政策や難民受け入れ政策を正面から取り上げて批判するようになる。その根底にあったのがイスラム、およびイスラム系移民への厳しい評価だった[62]

 フォルタインはイスラム批判を極右に典型的な人種・民族差別的な文脈では行わなかった。むしろ、その正反対に存在すると言える、西洋の啓蒙主義的な普遍的価値をイスラム批判に利用した。彼の主張によれば、イスラムは近代西洋諸国で実現されてきた政教分離、個人の自立、男女の平等といった諸原理と根本的に対立するうえ、多文化主義政策によって社会統合が進まないことは、貧困などの事情と組み合わさって移民にイスラム原理主義を浸透させ、対立を決定的なものにしてしまう[63]。また、彼は同性愛者であり、同性愛者や女性の権利を強く擁護し、それらを抑圧するイスラムを批判した。以上からわかるように彼の政治的志向は極めて「リベラル」であり、そしてその「リベラル」さ故にイスラムイスラム系移民の排除を目指していたと言えるだろう。

 しかし、彼が大衆的な支持を獲得するには政治情勢の変化を待たなければならなかった。「給付」から「就労」への改革を推進したコック政権の下で、特に1990年代後半以降のオランダ経済は好調に転じたが、2002年の総選挙でコック政権で与党を構成していた各政党は敗北し、政権交代が起こるとともにフォルタイン率いる新興政党フォルタイン党が躍進する結果となる。これはなぜなのだろうか。理由は主に3つ挙げられる[64]。第一に、既存主要政党の政策距離の接近が起こっていたということである。コック政権の与党は労働党自由民主人民党そして民主66であったという事は前述したが、オランダの戦後政治の基本的枠組みからすればこの連立政権は極めて異色な存在だった。というのは、労働党のような基幹産業の国有化や経済計画を掲げ国家による市場への規制・介入を重視する社会民主主義と、自由民主人民党のような経済的自由を重視する自由主義は本来的には相容れないものであり、現実としてこの二党は伝統的には政治的に厳しく対立してきたからである。しかし、労働党が党内改革を経て「第三の道」的な路線に転換し、市場経済グローバル化を受容した結果、オランダ政治における左右の政治ベクトルの幅が狭くなり、連立政権を組閣できるまでに政策距離が接近した。一方、もう一つの主要政党であるキリスト教民主アピールについても、労働党自由民主人民党の連立政権との政策的な違いを出し切れなくなった。有権者の側から見れば政治的選択肢が似たり寄ったりの状況になってしまったのである。第二に、コック政権が経済の自由化を進める中で、公共部門に対する投資を後回しにした結果として公共サービス(医療・教育・鉄道・道路整備)の質が目に見えて低下し国民の不満が高まったことがあげられる。そして第三に、移民・難民への不満が拡大していたことが理由として存在する。経済的な好転にもかかわらず、治安状況に改善は見らなかった。また、2001年のアメリ同時多発テロの衝撃はオランダ国内でも強く意識され反移民感情が高揚した。もっとも、コック政権は移民統合政策を強化していたが、その結果は短期では出ないものであり、かつ移民の流入傾向は変わらずのままであった。

以上のような、民衆の不満が蓄積した状況の中で、フォルタインは既存政党の政治家を「ハーグの寡頭支配階級」と呼び[65]、移民を問題にすることで既存政党の「隙間」を突き福祉排外主義を掲げた。2002年総選挙の直前に結党したフォルタイン党[66]の公約においては、公共サービスの劣化問題について中心的に取り扱うとともに、既存政治家のエリート性を強調して政治をエリートから国民に取り戻すべきだと強く主張したが、その一方で人種主義との混同を避けるためにもあからさまなイスラム批判は慎重に避け、移民流入の問題化にとどめた[67]。フォルタイン党の支持率は急上昇していき、選挙後の組閣交渉次第ではフォルタインの首相就任も現実味も帯びるほどであった[68]。しかし、総選挙まで10日を切ったある日、衝撃的な事件が起こる。フォルタインが暗殺されてしまったのである。とある環境保護活動家がフォルタインの政治スタンスを危険視し、至近距離から彼を銃撃、射殺した。カリスマ的リーダーを失ったフォルタイン党だったが、選挙では17%の票を獲得し、組閣交渉を経て連立政権(バルケネンデ政権)に参加することになった。一方、同選挙ではコック政権で与党を務めた各政党がその勢力を大きく減退させた[69]。その後のフォルタイン党について軽く触れると、カリスマ的党創設者を失った結果として内紛が発生し、また党内部で確固たる基盤を持つリーダーも出現せず凋落の一途を辿っていくこととなる。2003年には首相のバルケネンデ(キリスト教民主アピール所属)が、内紛に明け暮れ安定しないフォルタイン党外しを目的とした内閣総辞職・再選挙を行い、この結果フォルタイン党は勢力を3分の1ほどに激減させた、これが決定打となり、フォルタイン党はその後の幾度の内紛・分裂を経て最終的に解党することになった[70]

かくしてフォルタイン党の直接的な政治影響力は皆無に等しいものになっていったが、その一方でフォルタイン(党)の政策は既存政党の側に受容されていくことになる。特にバルケネンデ政権と中核与党であるキリスト教民主アピールにおいてはその傾向が顕著であり、同政権の下で移民・難民政策の厳格化が遂行されていった。具体的には多文化主義政策から「市民化」統合政策に移行し、移民の入国の制限を強化するとともに入国希望者にはオランダ語およびオランダ社会に関する知識のテストを課すことにし、さらにその後もオランダに定住している外国人に対し市民化試験を義務付けた[71]。これらの政策の目的は移民・国内の外国人にオランダの価値規範を受容させることである。加えて、難民政策でも送還も含めた厳しい政策が取られた[72]

 

ⅳ)ウィルデルスと自由党

 

 既存政党がフォルタイン(党)の影響を受容していく中で、右翼ポピュリズムとしての特徴を備え、フォルタインの事実上の後継として頭角を現していったのがウィルデルスである。

 ウィルデルスはもともとは自由民主人民党の国会議員であったが、移民問題やトルコのEU加盟問題で党執行部と考え方の違いからたびたび対立し、最終的には執行部や有力者に従順な党文化そのものを批判し離党する。そして、その後は挑戦的なイスラム批判などで注目を集めるようになる[73]。彼はその著書『自由への選択』(2005)の中でイスラムを、そのユダヤキリスト教と違い政教分離が根本的に想定されていない点でオランダの価値規範を共有せず、あまつさえ民主主義の転覆を企てるようなイスラム原理主義の過激思想をも内包するものとし、過激派への予防拘禁も含めた基本的権利の制限を主張し、かつまた、過激派の温床となる「統合」が不十分な移民は即自国外追放すべきだと主張している[74]。こうしたウィルデルスのイスラム批判はフォルタインと同じく「自由」に価値を置くことで成立している。彼も女性や同性愛者の権利を強く支持し「自由」の敵(イスラム)に対して「不寛容」でいるべきだと言うのである[75]。彼は離党後、一人会派の議員として活動していたが、2005年に行われたヨーロッパ憲法条約批准をめぐる国民投票の中、既存主要政党が軒並み賛意を示す一方でEUへのこれ以上の権限移譲を避けるべきだとして強力な反対キャンペーンを行うこととなる[76]。投票の結果は約6割の圧倒的な反対により否決という結果に終わる。これは、既存主要政党が民意を全く反映していないという現実を可視化し、国民の真の意見をウィルデルスらが代表しているという印象を強く表してしまう結果となった[77]。この2005年の国民投票によってウィルデルスはその知名度を大きく上げることとなる。

 ウィルデルスは2006年に自由党を創設し、継続的に支持を拡大していく、そして2010年の総選挙の結果、ついに連立政権の一角を閣外協力という形ながら占めることになり、現実的な政治的影響力も強く持つようになった[78]。その後、連立は解消されたが党勢は全く衰える事なく、本論文の冒頭でも述べたように2017年の総選挙ではついに第二党の座にまでのし上がることとなる。ウィルデルスと自由党は今も「台風の目」としてオランダ政治を揺さぶり続けている。

 

Ⅲ極右から右翼ポピュリズムへ――フランス国民戦線を事例として――

 

フランスにおいても右翼ポピュリズム政党の勢力が増している。冒頭でも述べた通り、2017年大統領選挙では共和党中道右派)そして社会党中道左派)という、フランス戦後政治の担い手の正統な後継者ともいえる二大中道政党の候補者を下し、メディア報道では「極右」とも形容されることが多い国民戦線(以下FN)の党首、マリーヌ・ルペンが決選投票に進出した。決選投票ではもう一人の候補者であったエマニュエル・マクロンに大差で敗れはしたものの、彼女は次期大統領選の主要候補者という地位を未だ確保しつづけている。大統領就任後のマクロン政権運営は盤石とは言えず[79]マリーヌ・ルペンも党名を国民連合に改名することで[80]、さらなる支持拡大を図っている[81]

 FNの出発点は議会外での暴力闘争をも辞さない勢力を内部に抱える完全なる極右政党であった。しかし、そのようなFNの性格は党の主導権を巡る権力闘争や党改革を経て変容していく。現在のFNは当初に見られたような「極右」的性格を脱皮し、右翼ポピュリズム政党としてその勢力を拡大している。本章ではFNの歴史をフランスにおける政治、社会、そして経済上の情勢変化も参照しつつ辿っていきたい。

 

ⅰ)フランス戦後政治、左右の接近

 

 本節では、フランスの戦後政治について記述する。72年の結党以降、FNが勢力を徐々に拡大していく背景には何があったのだろうか。

 第五共和制移行(1958)後1980年代までは、左翼-保守の2極対立構造――社会党(PS)・共産党中道右派政党・ドゴール主義政党――がフランス政治を支配してきた。コアビタシオン[82]と呼ばれる保革共存政権が成立しても政治の安定は損なわれることなく、政権交代可能な民主主義が維持されてきた[83]。しかし、この2極対立構造は1980年代から危機を迎え、その危機は90年代に入ってから本格的に増幅していく。80~90年代の20年間の中で、有権者の4分の3が政権担当が可能な既成政党に投票していた時代から、棄権票と左右の急進主義政党に投票する有権者過半数に達する時代に変化する[84]。この変化の背景には何があったのだろうか。

 戦後のフランス経済は「栄光の30年」と呼ばれる安定と繁栄の時代を謳歌していたが、73年のオイルショックを契機として不景気へと突入していく[85]スタグフレーションが発生し、80年代を通じて失業率は増加した。また、70年代から産業構造の変革も生じ始め、製造業部門に従事していた労働者は、不安定な雇用と低賃金が特徴の非製造業部門(商業・サービス・運輸など)への転職を余儀なくされていく。このような情勢下で、1981年に国民の大きな期待を受けたミッテラン政権(左翼政権)が成立する。同政権の下で雇用と生活水準、社会保障の改善が目指され、国有化政策など経済への介入が行われた他、最低賃金低所得者への住宅手当、医療給付・年金の増額といった購買力政策が実行されたが、これらは貿易赤字財政赤字を引き起こす結果となった[86]。これを受けてミッテラン政権は方針を転換し、緊縮政策や貿易収支の改善、企業競争力の強化を優先するようになり、国民生活の改善は二の次となる。つまり、改革路線を放棄して市場経済の受容に動いたのだった。これ以降の左翼政党はケインズ主義的な一国レベルでの社会主義建設を放棄し、欧州統合による福祉国家の維持を目指していくこととなる[87]。しかしこれは、左翼政党にとって保守中道政党との区別化されたイデオロギーや政策を失っていくことを示していた。97年にもコアビタシオンとして左翼政権が成立するが、国民の生活改善につながる政策は重視されなかった。

 ミッテラン政権の時代から、フランス経済の復興策として欧州統合が推進された。これは、確かに国富の増大には繋がったが、一方で不平等を拡大させ社会の分断を進行させることとなる[88]。これと前後してFNは現実政治への異議申し立ての手段として利用され始める。後に触れるFNの支持層の「プロレタリア化」についてもこの時点から始まる。戦後のフランスでは、民衆の不満を代弁するのは左翼政党であり、特にフランス共産党は強力な社会的抗議の回路としての機能を有していた[89]。しかし、フランス共産党ミッテラン政権に参加したために既存政党の一翼として認識されるようになったし、何より1980年代末からの「旧共産圏」の崩壊というポスト冷戦の条件の下でイデオロギー的威信を失い急速に衰退していく[90]社会党については上述したように、イデオロギー的変容を遂げた。この結果、FNは左翼政党から離反した民衆を支持層として獲得していくことになるのである[91]

 ところで、FNの勢力拡大に寄与した要素として、「移民」にも触れておく必要があるだろう。フランスは戦間期にも一次大戦による人口減少を補うために南欧からの移民を受け入れていたが、二次大戦後は戦後復興から経済成長の過程で労働者不足を補うために、旧植民地や海外県から労働力を移入するようになる。もともと非ヨーロッパ系移民は生活習慣や文化、宗教上の違いが大きく、社会生活上での摩擦が生じやすいが、73年のオイルショック以降、移民に対する世論の態度は硬化しはじめる[92]。移民は犯罪と結びつけられるようになり、失業率の上昇も移民との職の奪い合いという観点に結びついた。加えて、民衆の経済的苦境の中で移民は社会的コストに関しても医療や社会保障、失業手当などの面で重荷とみなされるようになる[93]。これら社会的不満を受けて、1974年から移民の新規受け入れは停止されるが、これは移民の定住化を惹起するとともに[94]、家族の招致、難民、不法入国・滞在などを通じてフランスの移民は増加し続けた[95]。こうした中で、FNは移民のフランス社会へ同化しない姿勢を問題とするとともに、社会給付や公的サービスの提供においてフランス人が「差別」されていることを告発し「自国民優先[96]」を掲げるようになる。FNの反移民言説は80年代前半から有権者の支持を受け始め、90年に入ると既存政党もFNの側に寄り始めるようになる[97]。このようにして移民問題は政治問題として浮上しFNに有利な宣伝材料と化すこととなった。

 

ⅱ)FNの結成、そしてルペンの権力掌握

 

 本節では1972年に結党されたFNの最初期の歴史と特徴について触れる。

 FNは、典型的な極右政党として結成された。1960年代の(新)左翼運動の興勢に対抗する目的で新秩序(ON)と呼ばれるネオ・ファシストの極右集団が結成されたが、このONが選挙という合法的手段を利用するために主導権を握りながら他の極右勢力(王党派、カトリック伝統主義派、ペタン派、ファシスト、極右急進学生運動)を統合して作ったのがFNである[98]。そしてこの際に、党首として担ぎ出されたのがジャン=マリー・ルペンだった。ルペンが当時、元国会議員やアルジェリア独立問題における独立反対運動の闘士などを経験した極右政治家として知名度が高かった人物だったためである[99]。しかし、FNは一部の党内勢力にとっては保守革命という目標における議会闘争部分を担う一部門にすぎず、そうした勢力にとってはルペンも単なる広告塔的役割であり、彼が党内で確固たる指導権を握っていたわけではなかった[100]。その結果、極右の雑多な寄り合い所帯である初期FNでは1970年代を通じて党内抗争と分裂に明け暮れることとなる。こうした党の内紛という事情に加え、1970年代のFNは多くの有権者に選好されるような主張を展開できなかった[101]。初期FNは「反共」をイデオロギーの中核とし、植民地へのノスタルジーや保守的なカトリック信仰を宣伝材料にしていた。加えて、その経済政策は中小企業経営者や職人(旧中間層)、保守的ブルジョワを支持基盤としていたことから、市場の役割を重視し国家の縮小と減税を訴える新自由主義路線を採用していた。以上のような理由で結党後約10年の間はFNは泡沫政党を免れることができなかった[102]。しかし、徐々に情勢は変わっていく[103]。まず第一として、党内で議会路線派のルペンと対立していた急進派のリーダー的存在であったF・デュプラが自動車爆発事故で死亡したことが大きい。この事故によって党内の力関係が崩れ、急進派の追放や離党が相次ぐことになる。そして第二として、ルペンに親和的な極右勢力が党に大挙して加入することとなったことも大きい。以上のような党内力学の変化により、ルペンはFNにおいて確固たる指導体制を確立することとなり「ルペンのFN」が成立することとなった。しかし、このような変化のみではFNは支持を拡大することはできなかった。

 

ⅲ)「新右翼」の加入、改革と拡大、党の分裂

 

 FNを泡沫政党から脱却させることに成功したのは、1980年代半ばから加入してきた「新右翼」による党改革によるところが大きい。そもそも「新右翼」とは、1960年代(あるいはそれ以降)の左翼系知識人の知的ヘゲモニーに対抗し、時代に即した右翼理論を構築することで思想的ヘゲモニーを奪還するために作られた「ヨーロッパ文明調査研究団」という団体に所属した極右系知識人の事をさす。彼らは思想・イデオロギー的次元に特化した活動を中心的に行っていたが、現実政治での影響力の拡大を目指す一部の知識人が「クラブ・ド・ロルロージュ(CDH)」という分派を結成し、保守政治家や高級官僚、経営者といった社会的影響力のある社会層への思想・イデオロギー的影響を与えることを模索し始める。その一環としてFNにもCDHの「新右翼」が加入することとなった。

 CDHからFNに移行した代表的人物がB・メグレであった。彼はもともとはフランス政府の高級官僚であったが、CDHに勧誘されて政治の世界を志し始め、保守政党を渡り歩き、最終的に1985年にFNにたどり着く。メグレらは、アカデミズムと官僚の世界に繋がる人脈、知的威信と専門能力によりFNにとって貴重な人材とみなされ、すぐに党の主要幹部として登用されるようになった[104]。以下、メグレ派が行った党改革を①党の近代化・組織化、②イデオロギーの再定義・戦略の再考という2つの観点からみていきたい。

 まずは党の近代化・組織化である。ルペンが指導体制を確立した以降のFNは彼の王国というべきような未熟な政党としてしか機能していなかった[105]。党組織は存在するが党内民主主義は機能せず、権威主義的な党首が独断で決定を下していた。党組織についても県連や地方組織は存在しないか、あっても実体のない状態であり、幹部を養成し党の歴史や教義の基本を共有するという支部活動もままならぬ状態であった。なにより党組織の脆弱さは選挙における候補者擁立を阻害していた。メグレたちは党の組織化に乗り出す。党首であるルペンのもと、副党首や財務担当者、政治局、中央委員会、全国評議会(政治局員、中央委員会委員、欧州議会・地域圏議会議員、県連書記で構成)といった党の中央組織と、地域圏や県レベルの地方組織が整備され、中央から地方へのヒエラルキー的党構造が完成した[106]。加えて、メグレがトップを務めた「全国代表部」の下でさらなる組織整備が進んでいく[107]。全国代表部の機能は理論、プログラム、戦略を策定、党内外に発信することであった。具体的には、地方議員への研修や、大学教員による夜間講座、週末の幹部学校、活動家研修などの役割を果たす「全国研修所」が設置された。さらに、地域社会への浸透を目指しビラ配布やポスター貼りなどの活動が促され、そのためのノウハウも伝授された。種々の職業分野での「全国サークル」やFN系労組も結成された。

 次に、イデオロギーの再定義・戦略の再考である。メグレらはFNを「脱極右政党化」し「責任ある政党」、「政権担当可能な政党」に移行させるために、理論的・知的能力の誇示や政策提言能力を証明しようとしていた[108]。しかし、その段階に至る前にまずFNを「普通の政党」にする必要があった。FNはその起源や反移民言説、更には党首ルペンの発言[109]により、人種差別主義や暴力的で急進的なイメージがまとわりついていた。これらのイメージを払拭するための「脱悪魔化」が「普通の政党」へ向かうために取り組まれた。反移民言説を「自国民優先」という概念で糊塗し、排外主義的で外国人嫌いというレッテルを回避しようとしたり、イスラム系移民の流入については文明論・人口論的争点[110]に落とし込むといった努力がみられる[111]。加えて、これまで重視してこなかった政策領域にも注目された。それが経済分野である。前述したようにFNの初期の経済政策は新自由主義が基調とされていた。しかし1990年代からは、市場よりは寧ろ国民の利益を重視した社会政策の立案を行うようになる[112]。経済のグローバル化に対抗し保護主義的性格を採用し、自営業者の負債へのモラトリアムや障碍者対策、最低賃金の保障、低賃金の改善といった政策が掲げられた。もっともこれらの根底には「自国民優先」という福祉排外主義が横たわっていることは指摘しておくべきだろう。ともかく、こうした政策転換は、第一節で説明したような左翼政党の変質(あるいは信頼の失墜ともいえよう)が影響した労働者層のFN支持増加、すなわちFNの支持層の「プロレタリア化」を背景としている。

 このような党改革を経て、95年の大統領選97年の国民議会選で15%程度の安定した集票力を示していくようになる[113]。しかし、政界で孤立した状況は変わらずであり、メグレらは既存保守政党との提携を模索するようになる。だが、これは党内部での深刻な対立を引き起こすこととなった。ルペン派と、党改革による着実な成果によって党の№2にまでのし上がったメグレ派との対立である。この対立の背景にはいくつかの要因[114]があるが、重要なのは対立が決定的となってしまい、その結果として、1999年にメグレ派の脱党を招いたという事であろう。分裂の結果、党改革に貢献してきた有能な人材の大部分、多くの党幹部や所属議員が失われたほか、党財政も危機に陥ることになった[115]。これは、パリの党本部が売却され地方都市に移転を余儀なくされるほどのものだった。

 

ⅳ)マリーヌ・ルペンのFNへ

 

 2000年代のFNはメグレ派との分裂の後遺症によって苦しむことになる。特に2000年代後半の選挙ではかつてないほどの党勢の低下がみられた[116]。加えて2000年代後半の低迷は、分裂という状況に加えカリスマ党首ルペンの高齢化という条件も明らかにする。トップの交替も含めたFNの刷新が、明らかに要請されていた。この中で徐々に頭角を現していったのが、ジャン=マリー・ルペンの三女マリーヌ・ルペンであった。

ここで、マリーヌ・ルペンの簡単なプロフィールを紹介する[117]。彼女は幼少期からFNの党本部に出入りすることで確実に父親の影響を受けていったが、その一方で政治活動に極端にコミットすることもなかった。大学生時代はFN系の学生運動団体に所属し学生自治会への選挙にも立候補していたが、一方でパーティに明け暮れるような学生生活を送っていた。大学卒業後は弁護士資格を取得するが、父親から受け継いだルペンの名によって一般的な職業生活を送る事ができず、FN系の訴訟を取り扱っていくうちに最終的には党の専従となることとなった。プライベートでは2度の離婚を経験し、子育てに追われながら党活動に従事していった。そして今現在は事実婚を選択している。

「マリーヌのFN」に向かう契機として重要だったのは2002年大統領選であった。党勢の低下にもかかわらず、同選挙で大統領選に出馬したルペンは第一回投票で社会党候補を下し決選投票に進出するという快挙を成し遂げる。とはいえ、この快挙はFNが自力で達成したというよりかは、左翼陣営の票の分散、同じく決選投票に進出したJ・シラクのFN主張の取り込みが逆にFNを正当化したこと、直前のコアビタシオンにおける左右の接近を対象とした反既成政党キャンペーンが実効性を持ったことなどがその理由としてある[118]。ともかく、この選挙はその後のFNにおいて重要な3つの意義を持った[119]。まず一つ目は、マリーヌ・ルペンが選挙キャンペーンの責任者となったことで、本格的にFNの活動に関与するきっかけとなったことである。そして第二は、FNのポピュリズムとしての性格がそれまで以上に明確に打ち出されたことである。民衆とエリートという対立構造を強調しFNが民衆の側につくことを宣言した。最後は、FNのイメージ転換戦略の必要性が再度認識されたという事である。決選投票に進出したことは既存政党及びその支持者たちに深刻な危機感を抱かせる。左翼陣営も保守候補だったシラクへの投票を呼びかけ「共和主義(民主主義)」の擁護が図られた。メグレ派改革の努力があったとはいえ、いまだにFNは「極右」と認識され有権者の多数の信頼を勝ち取ることはできないでいた。

マリーヌ・ルペンは2002年の大統領選挙以降、メグレ派が行っていた「脱悪魔化」戦略に取り組んでいく、ポスターや言説についても配慮を重ねたが、何よりも重視したのは、共和制やライシテとの関係性だった[120]。ライシテとはフランス共和制の核心的価値であり世俗主義政教分離を示す言葉である。FNが王党派やカトリック主義派らで構成されていたという事は第二節で述べたが、こうしたFNの構造は共和制及びライシテと常に緊張関係にあった。しかし、マリーヌ・ルペンは自由・人権の名のもとにあった共和制とライシテを、キリスト教的伝統の延長線上にあるものと位置づけることによって積極的に取り込みを図って行った。これはFNを共和主義や民主主義、自由、人権といった近代的価値を拒絶する「急進的で反動的な政党」としてのイメージを払拭する事に繋がっている。これに加え、共和制とライシテの受容は反イスラムという観点から見たときに有利に働く。イスラム教を反多元的な全体主義イデオロギーと規定することで、それから言論の自由、寛容、世俗主義、男女平等、性的マイノリティの権利といった民主主義的な価値・制度の防衛を担う側にいることを強調することができるのだ。オランダのフォルタイン及びウィルデルスと似たようなロジックの使い方がここに見て取れる[121]。加えて、マリーヌ・ルペンは「脱悪魔化」戦略の一環としてメディア露出を重視した[122]。彼女はメディアでの自己演出を高めるために、経済や社会についての勉強を通じて知識と討論力を鍛えていくとともに、声やイントネーション、雰囲気などにも気を付けた練習を繰り返した。FNに付きまとう「極右」という暴力的で強面のイメージとは全く違う存在である、ブロンドの長髪をたずさえた若い女性であるマリーヌ・ルペンはメディアや視聴者に好意的に受け入れられるようになっていく。

こうした「脱悪魔化」戦略は党外(選挙結果やメディア露出など)及び党内で一定の支持を獲得していく一方で、マリーヌ・ルペンに反感を持つ勢力との新たな党内対立の要因にもなった[123]。1999年のメグレ派との分裂は既存保守政党との提携を目指すメグレ派とあくまで体制のアウトサイダーに踏みとどまろうとするルペン派との路線闘争が背景にあったことは前述したが、後者の伝統的な極右・急進派の立場を堅持しようとするグループはマリーヌに厳しく対抗する。そもそもマリーヌ・ルペンのようなFNの新しい世代は文化、習俗、ライフスタイルのリベラル化や社会の個人主義化というフランス社会生活上の変化に大きく影響を受けている。マリーヌ自身も離婚を繰り返し最終的には事実婚を選択していたが、これは伝統的なカトリック派などからみれば全く受け入れ難いものであった。この延長線上に、共和制・ライシテの受容を巡るFN内での対立もあったと言えるだろう。加えて、ルペンがマリーヌを次期党首として贔屓していたことも批判材料となる。しかし、党内の反マリーヌ勢力は徐々に、除名や脱退などを通じて党から離脱していき、マリーヌのシンパサイザーである若手活動家たちも実務能力の高さを示しながら勢力を拡大していった。同時に、マリーヌ派との考え方が近いメグレ派の残党を、党とマリーヌへの忠誠を条件に次々と復党させていき彼らの人的ネットワーク、知識やノウハウを活用することが試みられた[124]。

こうした状況の中で2010年に開かれた党首選において「古いFN」を代表する対立候補を抑え、マリーヌ・ルペンが3分の2を超える圧倒的な得票率で勝利した[125]。党首就任後のマリーヌは執行部を自身の支持者で固め、さらなる「脱悪魔化」と党組織の整備に乗り出していく。特にFNから極右というレッテルを取り払うことには神経を使った[126]。父親のルペンは名誉党首に就任していたが、ルペンの反ユダヤ的・歴史修正主義的な失言スキャンダルを重く見た彼女は2015年についに彼を党から除名した。これにより名実ともに「マリーヌのFN」が完成したのであった。

「マリーヌのFN」が成し遂げたこととは何なのであろうか。FNは1990年代にメグレ派がイニシアチブを握っていた時から、福祉排外主義という既存政党の隙間を強調することで、左翼に幻滅した民衆層を動員する下準備を整えていた。これを「脱悪魔化」戦略と主張の見直し(共和制とライシテの擁護、それに基づく男女平等や性的マイノリティにおける「モダン」な価値観の採用)によって、「節度あるオルタナティブ」としてのFN像を確立し、有権者に示したのが「マリーヌのFN」であった[127]。「マリーヌのFN」は党名を「国民連合(RN)」と変更し、今もさらなる躍進を目指し活動している。

 

EUポピュリズム――「ブリュッセル」の官僚的支配――

 

 Ⅱ、Ⅲ章ではオランダ、フランスという2国に着目し、右翼ポピュリズム政党の躍進を具体的に辿った。しかしそこでは右翼ポピュリズムを下支えした、国内の政治、経済、社会上の条件について触れるにとどまってしまった。もちろんそうした条件も重要だが、国外の条件(具体的にはEUのことである)も同様に重要であろう。本章ではEUの組織構造の特徴に着目し、なぜそれらがポピュリズムを誘発する要因になり得るのかを説明していきたい。

 欧州の左右のポピュリストは程度の差はあれど共通して明確にEUを敵視している。例えば、FNが2017年の大統領選で掲げたマニュフェストにはフランスのEU離脱というオプションが明記されている[128]ハンガリーポーランドの右翼ポピュリスト(厳密には西欧の右翼ポピュリストとは質的に異なるが)はEUの基本理念であるリベラリズムに真っ向から対立し、EUとの訴訟も発生している[129]。なぜそこまでにしてEUは敵視されるのだろうか。政治学者の庄司克宏は簡潔にこう説明する。

 

  EUは、リベラル・デモクラシー(とくにリベラルの柱)を体現している。EUの主要機関であるコミッション(欧州委員会)、EU司法裁判所、欧州中央銀行は、選挙で選ばれない独立の「非多数派機関」(non-majoritarian-institutions)である。これらの機関は、加盟国政府と国内の多数派の行動に制限を課すことがあるため、ポピュリストからは国民の意思の邪魔をしていると見なされている。それゆえEUは、すべてのポピュリスト政党にとって格好の標的とされる。[130]

 

ブリュッセル」(EU本部とその関連機関が所在するために、しばしばEUはこのように呼ばれる)の指導者や官僚といったエリートは選挙を通じて選出されているわけではない。その一方で、EUは各国の主権行使を制限する機能を持っている。これがEUが非難される大きな原因となっているという事である。以下、この点について詳しくみていきたい。

 まずはEUの運営についてである[131]欧州理事会(加盟国の首脳で構成)が投票ではなくコンセンサスで基本的政治方針を決定し、その方針に基づきコミッション(欧州委員会)、閣僚理事会、欧州議会が個別の立法・政策を扱う。ここで重要なのはコミッションの持つ立法提案権の独占である。EUの立法はコミッションの提出した法案を閣僚理事会および欧州議会の双方で審査するという仕組みになっている。そしてコミッションは各国一人の委員で構成されているが「EU[132]」のために独立して活動することを義務付けられている。各国の担当大臣で構成されている閣僚理事会は自国の国益をはかりながら審議し、欧州議会ではトランスナショナルな政党グループごとに分かれて法案の審議をおこない多数決で可否を決める。閣僚理事会は全会一致に基づけば法案の修正を行う事ができるが、コミッションは審議中にいつでも修正を行う事ができるし、閣僚理事会の修正を法案そのものを撤回することで流すこともできる。このようにコミッションの権限が強くなっている。

 次に、EUの扱う政策分野についてみていきたい。EUは確かに超国家組織ではあるが、欧州共和国などというものではないので、加盟国と政策分野のすみわけを行い主権を共有していると言える。果たしてEUはどのような分野を担当しているのだろうか。そもそものEUの核心的な存在意義は、人・モノ・サービス・資本の自由移動を意味する域内市場の構築とその発展にある[133]。そのため域内市場の整備と市場規制政策はEUが当初より担当していたが、域内市場の完成によってその延長線上に3つの政策分野が形成された[134]。一つ目は対外政策の分野であるが、域内市場の対外的側面として他国との共通通商政策をはじめとした経済に関わる分野が徐々に強化され、それを補完するものとして共通外交・安全保障保障政策も導入された。二つ目は、人の自由移動に関わる分野である。EU設立時は域外国からEU加盟国に入国しようとする第三国国民に対する共通政策は予定されていなかった。しかし、シェンゲン協定(85シェンゲン条約、90シェンゲン実施協定、95発効)によって「人の自由移動」(域内国境管理の撤廃)が導入され、続くマーストリヒト条約(92署名、93発効)で政府間協力に基づく司法・内務協力が実施されるようになる。さらに、アムステルダム条約(97署名、99発効)においては司法・内務分野における「人の自由移動」政策はEUが管理し超国家的な協力を行う事になった。これに基づき、域内国境管理撤廃・域外国境管理の強化、難民庇護、移民に関する共通政策がEUの担当となる。三つ目は、通貨の統合(ユーロの導入)と欧州中央銀行による金融政策である。特にリーマンショック以後は欧州債務危機を背景としたEUレベルでの経済・財政政策の協力が強化された。以上のような政策分野においてEUは各国政府に対して主導権を持っている。

 ここまで、EUの運営方式と担当政策分野をみてきたが、次にEUがポピュリストの攻撃を受けている理由について説明していきたい。各国国民にとってのEUの存在意義は「インプット型正当性」――所与の政治システムが市民の総意にどの程度応えているかという事に基づく正当性――と「アウトプット型正当性」――所与の政治システムが市民の望む政策結果をどの程度実効的に達成しているかにより測定されている正当性――という二つの側面からはかることができる[135]。まず、「インプット型正当性」であるが、この正当性がEUには決定的に欠けている。第一に、コミッションは、民主的統制下にはない非多数派機関である。欧州議会については選挙を経ているために、一見するとインプット型正当性があるかのように見えるが、国民国家における同質的な「国民」に当たるようなものがEUレベルでは未だ存在しておらず、EUレベルでの共同体意識を強く共有した選挙民や政党制は根付いていない。その点でEUレベルでの民主主義は非常に脆弱であると言わざるを得ない。最後に、閣僚理事会についてである。閣僚理事会における決定は国票と人口票の二重多数決という形をとる「特定多数決[136]」を採用しているが、人口票は各国の人口に比例するためにその点で各国市民に平等な権利が与えられていない[137]。次に「アウトプット型正当性」であるが、「インプット型正当性」が欠如しているEUはこれによって存在を支えられてきたと言ってもよい。しかし、これは政策の失敗によって容易に正当性が揺らいでしまうという事も意味している[138]。事実、欧州債務危機以降の緊縮財政政策の「押しつけ」は南欧の左派ポピュリズムの台頭を招いたし、欧州難民危機もまた、難民・移民政策がEUの所管事項だったために、そしてその結果として加盟国の意向を無視する形で難民の配分を押し付ける形になってしまったために「アウトプット型正当性」を激しく毀損し、EUを右翼ポピュリズムにとっての厳しい批判対象としてしまった。

もっとも、EUが「アウトプット型正当性」に基づいてきたのは、欧州統合の歴史からしても当然の帰結であったといえる。というのも、欧州統合は「モネ方式[139]」と呼ばれる方法でなされてきたからである。これは、各国の政治エリートや外交官のコンセンサスに基づき、テクノクラート的な手法により「結果」を重視した経済統合(市場統合)のプロジェクトをはじめに行い、その後この「結果」に対する市民の支持を背景として政治統合を推進するというものだった[140]。つまり、欧州統合における市場統合の段階は国内政治上の議論から排除されていたのである。しかし、市場統合を超えた国家主権に関わるような政策分野[141]EUが扱うようになってくると、「モネ方式」でいうところの「市民の支持」が必要となってきたが、結果としてそれらは得ることができなかったのである[142]。そしてそのまま、「モネ方式」の一段階目に基づいた欧州統合は続けられた。その帰結として、民主的なコンセンサスが不十分のまま国家主権の共有(=政治統合)が行われることとなり、国内政治における政策分野が民主的正統性を欠いたまま一方的にEUに回収されてしまうこととなった[143]

 以上のような、両サイドからの正当性の揺らぎ(厳密には前者はもともと欠如していたわけだが)が、EUの「エリート的・官僚的支配」から国民の手に「主権を取り戻す」と主張する左右のポピュリズムを招来してしまうことになったのである。

 

結び

 

 本論文では、はじめに、ポピュリズムと右翼ポピュリズムについて詳細に説明し、その後はオランダとフランスの二ヶ国を具体的な事例として、当該国の右翼ポピュリズム政党の歴史を辿った。そして最後に、ポピュリズムの外的要因としてのEUの存在を指摘した。本論文が、現代欧州政治の理解に役立つものとなれば幸いである。欧州における右翼ポピュリズムの勢力は未だ衰えていないし、今後数年間も「ポピュリズムの時代」となることは間違いないであろう。これを機会にぜひ右翼ポピュリズムに注目していただきたい。加えて、私は、日本がポピュリズムから例外的なままでいることができるというのは怪しいと考えている。実質的な移民の流入が始まり、格差の拡大が発生している中で消費税の増税社会保障の削減などが行われている。与野党を含めた既存政治に対する不満が確実に存在しているし、そうした政治の声を掬い上げるポピュリズムが発生してもおかしくはない情勢だろう。

 ここで、本論文における結論を述べておきたい。私は右翼ポピュリズム政党の特質は「左翼の代行」という要素にあると考えている。これは本論文の題である「ポスト冷戦の「叛逆」」の「叛逆」という要素とも関連する。19世紀の社会主義の体系的成立の時代から(あるいはより以前から)、労働者階級(もしくは社会の民衆)の利害を代表し彼らを組織化することで団結させ、資本家階級(もしくは社会のエリート層)に対する階級的闘争(=叛逆)を行ってきたのは左翼(政党)だった[144]。つまり、伝統的には労働者階級の社会不満は左翼(政党)の回路を通じて体現されていたと言える。だが、社会民主主義政党が市場とグローバリズムを受容した「第3の道」に転換したこと、そして共産主義政党がソ連邦をはじめとする旧共産圏の崩壊(つまり、共産主義社会の建設というプロジェクトの明白な破綻)を受け自己崩壊していったこと[145]、というポスト冷戦的な条件の下で、左翼はもはや労働者階級を寡占的に代表するという政治的ヘゲモニーを失った。この状況を侵食していったのが右翼ポピュリズムなのではないのだろうか。実際、右翼ポピュリズムの議会進出に伴って、各国では伝統的な社会民主主義政党が議席を大幅に失っていっているという共通の事情も見て取ることができる[146]。もちろん、前述したように左翼ポピュリズムが存在しないわけではない。左翼の側にもこれまで通り「叛逆」の回路は存在している。だが重要なのは、右翼ポピュリズムが左翼の機能を簒奪しつつあるという明白な現状だろう。本論文の結論は以上である。

最後に、今後の研究課題であるが、フランスの福祉国家について「給付」から「参加」をキーワードにした変化をもう少し探っていきたい。また、今回はあえて扱わなかった東欧のポピュリズムについても、なぜ発生したのかという観点から探っていきたい。

 

引用・参考文献

 

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水島治郎 「オランダ―変容する「最先進国」のデモクラシー」 『ポピュリズムの本質―「政治的疎外」克服できるか』 谷口将紀・水島治郎編、中央公論新社、2018 a年。

水島治郎 『反転する福祉国家オランダモデルの光と影』 岩波書店、2019年。

水島治郎 『ポピュリズムとは何か―民主主義の敵か、改革の希望か』 中央公論新社、2018b年。

小舘尚文 「ドイツ―戦後の政治体制を揺さぶるポピュリズムの脅威」 『ポピュリズムの本質―「政治的疎外」克服できるか』 谷口将紀・水島治郎編、中央公論新社、2018年。

野中尚人 「フランス―既成の政党システムの終焉と新たな世代による政治」 『ポピュリズムの本質―「政治的疎外」克服できるか』 谷口将紀・水島治郎編、中央公論新社、2018年。

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古賀光生 「西欧保守における政権枠組の変容」 『保守の比較政治学―欧州・日本の保守政党ポピュリズム』 水島治郎編、岩波書店、2016年。

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畑山敏夫 「マリーヌ・ルペンとフランスの右翼ポピュリズム―変容するフランス政治と「国民戦線(FN)」について考える(2)」 佐賀大学経済論集 / 佐賀大学経済学会:50(4), 23-65,( 2018 a)。

畑山敏夫 「マリーヌ・ルペンとフランスの右翼ポピュリズム―変容するフランス政治と「国民戦線(FN)」について考える(3)」 佐賀大学経済論集 / 佐賀大学経済学会:51(1), 1-41, (2018 b)。

畑山敏夫 「マリーヌ・ルペンとフランスの右翼ポピュリズム―変容するフランス政治と「国民戦線(FN)」について考える(4)」 佐賀大学経済論集 / 佐賀大学経済学会:51(2), 33-71, (2018 c)。

庄司克宏 『欧州ポピュリズムEU分断は避けられるか』 筑摩書房、2018年。

 

 

インターネット上のメディア記事

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2019年9月20日閲覧。      

BBC:仏国民戦線、新党名案は「国民連合」=ル・ペン党首

https://www.bbc.com/japanese/43367689

2019年10月12日閲覧。

 

[1] ミュラー(2017)  p.12。

[2] 野中(2018) p.124,125。

[3] 水島(2018 a)p.105,106。

[4] 小舘(2018) pp.157-160。

[5] もっとも、SPDの凋落には、同選挙でAfDと共に躍進した「同盟90/緑の党」という左派政党に支持を奪われたという背景もあるが、いずれにせよ既存政党及び既存政治への不満が高まっていることは間違いないといえる。

[6] 極右(政党)と報道している参考例として

国民戦線について:産経新聞(2018年3月12日)の報道

https://www.sankei.com/world/news/180312/wor1803120044-n1.html

オランダ自由党について:日経新聞(2017年10月26日)の報道

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22749880W7A021C1FF2000/

③AfDについて:日経新聞(2019年8月21日)の報道(https://www.nikkei.com/article/DGXMZO48804170R20C19A8000000/

があげられる。

[7] 勿論、後述するように極右的要素が完全にないとは言えない。しかし彼らは、様々な手段でこれらの要素を隠蔽・偽装している。

[8] 例としてフランスの国民戦線

[9] 例として、ポーランドハンガリー

[10] ポピュリズム政党が政権を獲得後、具体的に何を行うかという文脈においてのみ例示する。

[11] ベネズエラの大統領を務めたウゴ・チャベスや、スペインの左派ポピュリズム政党であるポデモス、ギリシャの左派ポピュリズム政党である急進左派連合(シリザ)、が左翼ポピュリズムの代表例である。

[12] 主要な右翼・左翼ポピュリズムがともに反経済的エリートの観点から再分配の要求を行うのに対して、ティーパーティは正反対であり自由市場経済を強く擁護する。(ミュデ&カルトワッセル(2018) p.25。)

[13] ミュデ&カルトワッセルは多様なアプローチによるポピュリズムの定義を以下の5つに整理した。(ミュデ&カルトワッセル(2018) pp.10-12。)

①人民を行為主体とするアプローチ:ポピュリズムとは人民が政治に携わることによって築かれる民主的な生活様式と考えられ、人々を共同体主義的な民主主義モデルの創出に動かす動力とみなされている。

②エルネスト・ラクラウ(アルゼンチン出身の政治理論家)的なアプローチ:ポピュリズムは政治から疎外された階層を動員することで、欠陥のあるリベラル・デモクラシーをより優れたラディカル・デモクラシーに変容させることに寄与するものとされている。

③社会経済的なアプローチ:80、90年代のラテンアメリカポピュリズム研究において多用された。ポピュリズムは無責任な経済政策の一類型であり、外債による巨額の政府支出とそれによるハイパーインフレ、その後の過酷な景気調整が特徴とされている。

④政治戦略と捉えるアプローチ:ポピュリズムは、権力を自身に集中させるために支持者との直接的な結びつき保ち、かつそれを介して統治をおこなうという、カリスマ的指導者が取る政治戦略とされている。

⑤政治スタイルと捉えるアプローチ:ポピュリズムとは、政党や政治指導者が大衆を動員するために、あえて社会的慣習を破ることで、自らを新奇な存在・エリートに立ち向かう存在だと演出し、メディアと民衆から注目を集める政治スタイルとされている。

[14] 理念的アプローチでは、ポピュリズムはある種の言説やイデオロギー、世界観と捉えられる。

[15] ミュデ&カルトワッセル(2018) p.14。

[16] ミュラー(2017) p.27。

[17] ミュデ&カルトワッセル(2018) p.23。

[18] 左翼ポピュリズムにおいてはエリートはもっぱら経済的階級と関連するものとされ、右翼ポピュリズムにおいてはエリートは経済的階級に加え「ネイション」(に関連した不真正さ)とも結びつけられる。例えば、ヨーロッパ諸国においては、エリートはEUに奉仕し反国家利益的行動を為すものと糾弾される。(ミュデ&カルトワッセル(2018) pp.24-26。)

[19] ミュデ&カルトワッセル(2018) p.17。

[20] ここで重要なのは、道徳的か非道徳的かという基準で社会を分断しているという点である。反多元主義的な政治アクターはポピュリスト以外にも数多く存在するが、それらと違い、人民を道徳的に純粋でその意思が不可謬だと主張するのがポピュリストの大きな特徴である。(ミュラー(2017) p.27。)

[21] ミュラー(2017) p.27。

[22] ミュデ&カルトワッセル(2018) p.15。

[23] 同上 p.15。

[24] 例として、村上(2015)

[25] 例に挙げた村上(2015)ではp879において、ポピュリズムは大衆扇動政治とされているが、これは脚注で詳述した5類型でいうと④ないしは⑤に当てはまるだろう。

[26] ハフィントンポスト(https://m.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5d357f49e4b0419fd32f6c8d

[27] ミュデ&カルトワッセル(2018) p.149。

[28] ミュデ&カルトワッセル(2018) p.149。

[29] 「政治的疎外」を中心的に研究したものとしては、谷口将紀「忍び寄る「新しい政治的疎外」」『ポピュリズムの本質―「政治的疎外」克服できるか』 谷口将紀・水島治郎編、中央公論新社、2018年、が存在する。

[30] ミュラーの定義を参照いただきたい。

[31] ミュデ&カルトワッセル(2018) p.157。

[32] 「タブー」だったのはこうした争点設定がナチス的な手法を想起させるためである。

[33] ミュデ&カルトワッセル(2018)p.157,158。

[34] 野田(2013) p.16。

[35] 古賀(2016) p.6。

[36] 例えば、イスラム文化は同性愛や女性に対して差別的で非寛容な取り扱いを為すことが強調され、こうしたものに対して寛容な自国にふさわしくないものとして排斥の対象とする。(古賀(2012))

[37] 古賀(2013 a) p.378。

[38] 水島(2019) p.222,223。

[39] 水島(2019) pp.217-220。

[40] ミュラー(2017) pp.30-33。

[41] なお、この特徴は歴史的変化とあるように、ある程度の党としての歴史がある右翼ポピュリズム政党(フランス国民戦線デンマーク国民党)に限られた話であり、そのためオランダの自由党(2004年結党)など歴史の浅い政党は除外される。

[42] 欧米における政治的な左右の軸の対立は経済における立場の違いによって分けられ、右(保守/右翼)が経済的自由主義であり反規制を主張する立場であるのに対して、左(革新/左翼)が国家による経済への干渉を支持する立場である。

[43] 古賀(2013 a) pp.391-399。

[44] デンマークの進歩党やイタリアのMSIがそうである

[45] 本章で説明するようなフォルタイン党や自由党に加え、デンマーク国民党がある

[46] 水島(2019) p.21。

[47] 三類型とは、ヨーロッパ大陸諸国に見られる「保守的福祉国家ジーム」、北欧諸国の「社会民主主義ジーム」、英米型の「自由主義ジーム」である。(G・エスピン-アンデルセン 『福祉資本主義の三つの世界―比較福祉国家の理論と動態』 岡沢憲芙・宮本太郎監訳、ミネルヴァ書房、2001年。)

[48] 水島(2019) p.20。

[49] 水島(2019) pp.51-54。

[50] 同上 p.50,51。

[51] 同上 p.54,55。

[52] 同上 pp.57-60。

[53] 同上 p.61,62。

[54] 同上 pp.62-71。

[55] 同上 pp.73-76。

[56] 水島(2019)  p.78,79。

[57] 非西洋系の移民一世と二世をこう呼ぶ

[58] 水島(2019) pp.116-118。

[59] イスラム系、ヒンドゥー系の小中学校が建設され、母国語の教育もなされた。

[60] 加えて移民が多く住む地域は貧困・犯罪が大きな問題となる。

[61] 水島(2019) pp.119-121。

[62] 同上 p.128,129。

[63] 水島(2019) pp.129-131。

[64] 同上 pp.121-126。

[65] 同上 p.124,125。

[66] フォルタイン党結党直前に彼は「すみよいオランダ」という政党に所属しており、同党から総選挙に出馬する予定であった。「すみよいオランダ」及びフォルタインの離党の経緯等については水島(2019)pp.139-156を参照せよ。

[67] 水島(2019) pp.132-136。

[68] オランダはの国会議員選挙は比例代表制であり単一政党で組閣を行うのは極めて困難である。フォルタインはその現状を踏まえ、既存政党批判を政党ごとに差別的に行う事で、連立への道を模索していた。(水島(2019) p.137。)

[69] 水島(2019) p.160。

[70] 同上 p.163,165,166。

[71] 同上 pp.173-175。

[72] 同上 p.177。

[73] 水島(2019) pp.193-195。

[74] 同上 pp.196-199。

[75] 同上 p.198,199。

[76] ウィルデルスらのほかに批准反対運動を行った勢力として社会党というオランダ議会政治最左派の政党もあった。既存政治が左右両翼の極から批判されるとともにその極の方がオランダ国民の意見を代表しているという事が明らかになってしまったというのがこの国民投票の意義であった。

[77] 水島(2019) pp.204-206。

[78] 移民政策で特に発揮された。

[79] 例えば、マクロンの富裕層優遇政策に反対する「黄色いベスト運動」と呼ばれる大規模な暴動が発生した。2018年11月から発生したが、論文執筆現在(2019年10月)の時点でも完全には沈静化されていない。

[80] BBC:「仏国民戦線、新党名案は「国民連合」=ル・ペン党首」(https://www.bbc.com/japanese/43367689

[81] 党の改名がなぜ支持拡大につながりうるのかは後述する「脱悪魔化」戦略に関係するだろう。

[82] 第五共和制は大統領に強い権限がある一方で、首相は実質的に国民議会の影響下で選出される。そのためイデオロギー的に対立した大統領と首相が並立する場合があり、これはコアビタシオン保革共存政権)と呼ばれる。

[83] 畑山(2017) p.67,68。

[84] 畑山(2017) p.68。

[85] 同上 p.63,65,66。

[86] 同上 p.63,64。

[87] 同上 p.64。

[88] 同上 p.65,66。

[89] 畑山(1997) p.33。

[90] 畑山(2017) p.71。

[91] 共産党及び社会党の支持層がFNに流れたという説については、畑山(1997) p.102,103を参照せよ。

[92] 畑山(1997) p.36,37。

[93] これ以前は移民はむしろ、フランス人の就かない職種を担う存在として好意的にみられていた。

[94] 政府は移民の帰国奨励策を推進したが、受け入れ停止が逆に定住化を招いた(畑山(1997) p.39。)

[95] 畑山(2017) p.74。

[96] 典型的な福祉排外主義である。

[97] 畑山(2017) p.77。

[98] 畑山(1997) pp.69-71。

[99] ルペンのFN党首就任以前の詳しいキャリアについては畑山(1997) pp.65-69を参照せよ。

[100] 畑山(2018 a) p.25。

[101] 同上 p.26,27。

[102] 同上 p.26。

[103] 同上 p.27。

[104] 畑山(2018 a) p.34,35。

[105] 同上 p.40。

[106] 同上 p.40。

[107] 同上 p.41,42。

[108] 同上 p.43。

[109] 代表的なものにホロコースト否定発言がある。

[110] イスラム系移民は多産であるという事で、キリスト教で白人のフランス人がマイノリティに陥る「危険性」を喚起した。

[111] 畑山(2018 a) p.38,39。

[112] 同上 pp.44-46。

[113] 同上 p.51。

[114] 詳しくは、畑山(2018 a) p.51-53を参照せよ。

[115] 畑山(2018 a) p.56,57。

[116] 畑山(2018 b) p.2,3。

[117] 畑山(2017) pp.78-93。

[118] 畑山(2018 b) p.5。

[119] 同上 pp.4-7。

[120] 畑山(2018 c) pp.52-54。

[121] 事実、オランダの極右ポピュリズムの成功をモデルにしたのではないかという指摘もある。(水島(2018 a) p.111。)

[122] 畑山(2018 b) pp.9-12。

[123] 同上 pp.12-16。

[124] 同上 p.16,17。

[125] 同上 p.25,26。

[126] 畑山(2018 b)  p.29-33。

[127] 畑山(2018 c) pp.57-61。

[128] 庄司(2018) p.19,20。

[129] 同上 pp.139-151。

[130] 同上 p.37。

[131] 同上 p0.70-72。

[132] 国益と対比した形でのEUの利益のことである。

[133] 庄司(2018) p.59。

[134] 同上 pp.60-62。

[135] 庄司(2018) pp.73-77。

[136] 加盟国の55%以上+EU総人口の65%

[137] 人口が少ない国の市民ほど不利に働く

[138] 庄司(2018) p.75,76。

[139] 欧州統合の父の1人である、ジャン・モネの名前に由来する。

[140] 庄司(2018) pp.97-99。

[141] これは前述したように、通貨統合や外交・安全保障、国境管理・移民・治安などの分野である。

[142] 2004年に政府間で署名された欧州憲法条約の批准後国民投票における否決(オランダ・フランス)がそれである。

[143] 庄司(2018) pp.106-109。

[144] これには異論があるだろう。国家社会主義あるいはファシズムといった運動やそれに類する右翼運動も左翼の階級闘争と表面的には似た形で労働者の利害を重視した活動を行った。しかしその時代、労働者を基盤とした運動の主流はあくまでも左翼にあった。

[145] これは、西欧諸国の共産党ユーロコミュニズムというソ連共産党の公式テーゼとは全く違う路線に走っていたにもかかわらず、である。

[146] ドイツ、フランス、オランダの社民主義政党の現状(獲得議席数)を参照されたい。

ポピュリズムとは何か⑴—ポピュリズムという概念及びその定義―

 ポピュリズムという概念は、それが政治において現象化した際に取る多様な形態によって定義することが非常に難しいとされる。例えば、本論文の主題であるナショナル・ポピュリズムは右翼的傾向の強いポピュリズムであるが、ラテンアメリカ南欧諸国に目を向けると、左翼的傾向の強いポピュリズムも存在する[1]。さらに、アメリカにはティーパーティという特異なポピュリズム運動も存在する[2]。これらを踏まえ、様々な学問分野における多種多様なアプローチによってポピュリズムの定義づけがなされているが、どれも完全に適切とはいいがたい[3]。ミュデ&カルトワッセルはこれらの様々なアプローチを参照しつつ、ポピュリズムを「理念的アプローチ[4]」によって以下のように定義した。

 

本書ではポピュリズムを、社会が究極的に「汚れなき人民」対「腐敗したエリート」という敵対する二つの同質的な陣営に分かれると考え、政治とは人民の一般意思(ヴォロンテ・ジェネラール)の表現であるべきだと論じる、中心の薄弱なイデオロギーと定義する。[5]

 

    政治学者のミュラーも同様のアプローチを用いてこのように定義づけている。

 

ポピュリズムとは、ある特定の政治の道徳主義的な創造(moralistic imagination of politics)であり、道徳的に純粋で完全に統一された人民―しかしわたしはそれを究極的には擬制的なものと論じるが―と、腐敗しているか、何らかのかたちで道徳的に劣っているとされたエリートとを対置するように政治世界を認識する方法である、と私は提示したい。[6]

 

    以上の二つの定義を見たときに、ポピュリズムの特徴としてまず両者に共通してあげられるのは、反エリート主義という要素だろう。ポピュリストは社会を、「エリート」と「人民」という二つの階級に分断する。多くの場合、ここでいう「エリート」は厳密には定義されてはいない。しかし、諸業界(政治・経済・メディア・芸術)で指導的地位に立つ(すなわち、権力を持つ)存在とされ[7]、「エリート」は「人民」の総意(一般意思)に逆らい自己の保身と利益追求にのみ邁進する道徳的に劣位な存在とされる[8]。なお、こうした主張が客観的に正当であるかは問題とはならない。ミュラーがその定義の中で述べているように、反エリート主義はあくまで「道徳主義的な創造」であって、ポピュリストの採用する世界観なのである。だが、反エリート主義(エリート批判)のみをポピュリズムの特徴としてしまう事は、定義の幅を広げすぎてしまう事に繋がりかねない。なぜならば、政治変革を志す政治勢力は往々にして、現状批判の文脈でエリート批判を伴った主張をするからである。このように考えるとき、通常の政治勢力とポピュリストとを明確に分けるのは、ポピュリストが持つ反多元主義という性格と言えるだろう。

    そもそも多元主義とは何なのであろうか。多元主義は、社会は多様な価値観・利害を持つ多種多様の社会集団に分割されており、そうした利害や価値観を妥協と合意の中でできうる限り政治に反映させるべきと考える立場である。多元主義者は、多様性は強みであり、特定の社会集団が一方的に有利になることを回避すべきと考える[9]。これに対し、反多元主義者であるポピュリストは前述したように社会を「エリート」と「人民」という二つの社会集団に分断し、「人民」がその一般意思によって「エリート」を排して政治を担うべきだと考えるが、ここで彼らは自分たちが「人民」を代表するものだと主張するのである。さらに重要なのは彼らが、自分たちが「人民」を代表すると言うだけではなく、自分たちのみが「人民」を代表すると主張する点である。つまり、ポピュリストは他の政治勢力の正統性を一切認めることはないのである。自らに反対する政治勢力は、すべて腐敗した「エリート」の一部だとされる。これに加え、「人民」に対してもポピュリストは反多元的性格をあらわにする。ポピュリストにとっては自らを支持しない民衆は誰であっても「人民」に包摂されないものとするのである[10]。(ポピュリストのこの性格はナショナル・ポピュリズムにおいてより強硬な形で表出する。詳しくは次節で述べる。)

 最後に、ポピュリズムの特徴として指摘しておくべきことは、ミュデ&カルトワッセルの定義でいう所の「中心の薄弱なイデオロギー」という部分であろう。一般に、イデオロギーとは人間と社会のあり方ならびに社会の構成や目的にかんする規範的な理念の集合であり、端的に換言すれば、世界がどうあるのか/どうあるべきなのかというものの見方の事を示す[11]。「中心の強固なイデオロギー」であるファシズムコミュニズム、そしてリベラリズム等はそれ自体で十分に、世界がどうあるのか/どうあるべきなのかを指し示すことができる。しかし、ポピュリズムはそうではない。ポピュリズムが政治的な回答を出そうとする時には必ず他の政治的イデオロギーとの結びつきを必要とする[12]。本節の冒頭で記したように、ポピュリズムは様々な政治的イデオロギー、すなわちナショナリズム社会主義ネオリベラリズム等と結びつく。逆に言えば、このような他のイデオロギーと結びつかなければポピュリズムは成立しえないのだ。

 以上をまとめると、ポピュリズムを、反エリート主義と反多元主義を特徴とした中心の薄弱なイデオロギー、と定義することができるだろう。

 

[1] ベネズエラの大統領を務めたウゴ・チャベスや、スペインの左派ポピュリズム政党であるポデモス、ギリシャの左派ポピュリズム政党である急進左派連合(シリザ)、が左翼ポピュリズムの代表例である。

[2] 主要な右翼・左翼ポピュリズムがともに反経済的エリートの観点から再分配の要求を行うのに対して、ティーパーティは正反対であり自由市場経済を強く擁護する。(ミュデ&カルトワッセル(2018) p.25。)

[3] ミュデ&カルトワッセルは多様なアプローチによるポピュリズムの定義を以下の5つに整理した。(ミュデ&カルトワッセル(2018) pp.10-12。)

①人民を行為主体とするアプローチ:ポピュリズムとは人民が政治に携わることによって築かれる民主的な生活様式と考えられ、人々を共同体主義的な民主主義モデルの創出に動かす動力とみなされている。

②エルネスト・ラクラウ(アルゼンチン出身の政治理論家)的なアプローチ:ポピュリズムは政治から疎外された階層を動員することで、欠陥のあるリベラル・デモクラシーをより優れたラディカル・デモクラシーに変容させることに寄与するものとされている。

③社会経済的なアプローチ:80、90年代のラテンアメリカポピュリズム研究において多用された。ポピュリズムは無責任な経済政策の一類型であり、外債による巨額の政府支出とそれによるハイパーインフレ、その後の過酷な景気調整が特徴とされている。

④政治戦略と捉えるアプローチ:ポピュリズムは、権力を自身に集中させるために支持者との直接的な結びつき保ち、かつそれを介して統治をおこなうという、カリスマ的指導者が取る政治戦略とされている。

⑤政治スタイルと捉えるアプローチ:ポピュリズムとは、政党や政治指導者が大衆を動員するために、あえて社会的慣習を破ることで、自らを新奇な存在・エリートに立ち向かう存在だと演出し、メディアと民衆から注目を集める政治スタイルとされている。

[4] 理念的アプローチでは、ポピュリズムはある種の言説やイデオロギー、世界観と捉えられる。

[5] ミュデ&カルトワッセル(2018) p.14。

[6] ミュラー(2017) p.27。

[7] ミュデ&カルトワッセル(2018) p.23。

[8] 左翼ポピュリズムにおいてはエリートはもっぱら経済的階級と関連するものとされ、右翼ポピュリズムにおいてはエリートは経済的階級に加え「ネイション(真正さ)」とも結びつけられる。例えば、ヨーロッパ諸国においては、エリートはEUに奉仕し反国家利益的行動を為すものと糾弾される。(ミュデ&カルトワッセル(2018) pp.24-26。)

[9] ミュデ&カルトワッセル(2018) p.17。

[10] ミュラー(2017) p.27。

[11] ミュデ&カルトワッセル(2018) p.15。

[12] 同上 p.15。

 

引用参考文献(本稿に直接的に該当するもの)

ヤン=ヴェルナー・ミュラー 『ポピュリズムとは何か』 板橋拓己訳、岩波書店、2017年。

カス・ミュデ+クリストバル・ロビラ・カルトワッセル 『ポピュリズム―デモクラシーの友と敵―』 永井大輔・高山裕二訳、白水社、2018年。

水島治郎 『ポピュリズムとは何か―民主主義の敵か、改革の希望か』 中央公論新社、2018年。